人を信じるっていうこと
人を愛するっていうのは、一体何なんだろう?
そもそも愛とは何を指すのだろうか?
「人を愛する」ということは、相手のことを「信じ」「信頼すること」だと信じてきた。
神様は私たちを「信じ」「信頼をしている」からこそ、私たちのことを見守り、すべてのことを許してくれているのだと思う。たとえ私たちが神様を裏切っても、なお私たちを信じていてくれるからこそ、神様に許され、新たに歩むことが出来るのだと思う。
もし、神様が私たちを信頼することをやめてしまったら、どんなに懇願してもそれは叶わない叫びに過ぎなくなってしまう。
しかし、私たち人間は神様ではないのでそんなに簡単に他人を許すことはとても難しい事である。
「すべてを許す」、キリスト教で常に言われていることである、本当にそうなのだろうか?
「すべてを許す」と「何でも許す」とは違う物だと考える。
もし「何でも許す」であれば、自分がどんなに仕打ちを受けても笑顔で対処しなくてはいけなくなってしまう。
しかし、現実は許せない事柄が多く存在する。
許せないということは、相手を信頼することなく、憎しみを持ってしまうことである、とても悲しいことだ。しかし、どうしても許すことが出来ない、、、
ある牧師曰く
「許せないことは確かにある、その時、神様に対して「私は許すことが出来ません」と報告は必ずしなさい。あとは神様がいいようにしてくれるから、」と
自分はどうなんだろうか?
「信じること」が難しくなったとき、やはり愛は消えていってしまうんだろうか?
いや、愛があるからこそ「信じたい」「信じさせてくれ」と叫んでしまうのである。しかし、そこでは「信じている」ではなく、まだ「信じたい」でとどまっている、心底信じているのであれば無条件に「愛している」と言いきれると思うのだが、心の中に「?」がある限り、不安が渦巻き、余計なことを思いめぐらし、ひとりで苦しくなっていくだけのことである。
神様への報告も遅れてしまっていた。
「信じている」「信じたい」「信じさせてくれ」「うううぅぅぅぅぅ〜〜〜」
本当に人を信じることが出来、心から安心して信じることの出来る相手と出会うということは、とても難しい現実である、、、
しかしやっぱり
「愛しているんだ」
きみのことを