立川聖パトリック教会
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1. 教会まで
家からパトリック教会までは、1時間くらい。
以前マルコ教会に行った時、ギリギリに出て、失敗していたのだが、9時15分くらいに家を出て、礼拝開始の5分前に到着した。
西国立の駅から、どしゃ降りで、びしょびしょになってしまった。
パトリック教会は、靴を脱いであがる形なので、タオルで拭いたとはいえ、自分のスリッパを持っていけばよかったと思った。

2. 礼拝
歌ミサではあったが、そのために式文があるのではなく、祈祷書を見ながら、オルガンの伴奏に合わせて歌う形だった。

礼拝堂の窓から緑が見え、明るく、広さを感じる礼拝堂だと思う。
(実際にはそんなに大きくない)出席者は30人くらい。

司式は日本語のみだが、会衆席から英語も同時に聞こえてくる。
それがなんとも不思議ではあるが、その場になじんでいると感じられた。
福音書はマタイによる福音書13:1-9.18-23
「種まきのたとえばなし」。
前半がたとえで、後半が解き明かしになっている。
後半は原始教会が付け加えた部分であろう。
イエスは種の運命を話しているが、解釈は負かれた種の側について話している。
イエスは、徒労に終わろうと、豊かな実りを信じて宣教活動を続けていた。
これは、弟子たちへの励ましであった。
しかし、イエスがいなくなってから、原始教会では、それでもイエスに近づくために、自分たちを振り返ったとき、種の側に視点がむいた。
イエスと直截であえない人たちが、「聞いて悟る」ため、解釈が必要となった。
「聞いて悟る」とは、お互いがそれぞれの痛み、課題を分かち合うこと。
自分の痛み、課題としてとらえること。
笹森司祭の説教は、普段の会話の延長のような感じで、聞きやすかった。

懺悔のとき、「師父よ私たちのために祈ってください」とある。ここを、マリア教会(司式山野繁子司祭)では、「司祭よ」と換えていたが、ここではそのままだった。
これから女性司祭が増えていく中で、「師父」「Father」などの
言葉は問題になると思う。

パトリックでの平和の挨拶はおもしろい。
30人くらいの会衆、司祭、サーバー、みんなで一つの輪を作り、手をつないで挨拶をする。
挨拶の仕方にはいろいろあると、改めて思わされた。

退堂のとき、司祭、サーバーが退堂していくと、ドアが自動的に開いたように思われた。
伺ったところ、天使が開けてくれるとのこと。
(ほんとは、笹森司祭のお子さん、類くんと、どなたかが開けている)

全体的に、家庭的な感じがした。
現役お母さんが司式をしているからだろうかと考えた。

3. 礼拝後
毎月第2日曜日には青年会があるということを、聖職候補生の鈴木裕二さんから伺っていたので、マルコ教会で参加したような、話し合いがあるのかと思っていた。

昼食は、青年会のメンバーたちが作った、おそうめんだった。青年は、6〜7人。かなり、まとまりの良いグループのようだった。

皆が、食事をし始めて、青年たちも食べながら、収支のことなど少し話して、それで、青年会は終わってしまった。
肩透かしを食らった感じだったが、三光の青年たちも似たようなものなので、OKなのかなとも思った。

「カパティランまつり」の宣伝をさせてもらったが、日曜学校のディキャンプがあるということで、難しそうだった。

これから、何か集まりをするようなときには、誘うと良いと思った。