ラザロの復活(ヨハネ福音書11章1節〜44節)
2005年03月31日
1.イエスとベタニアの姉妹とラザロ
聖書の中には、死んだ人がよみがえるという出来事は、このラザロの物語だけではありません。イエスは、死んだヤイロの娘をよみがえらせたという話(マルコ5:21〜43)、やもめの息子を生き返らせた話(ルカ7:11〜17)がある。
当時、死んだ人はよみがえるかということは、大きなテーマでした。ユダヤ教の中でも、ファリサイ派の人々は、よみがえることがあると主張していましたし、一方、サドカイ派の人々は、そんなことはありえないと言い張っていました。
この世の生物はかならず死にます。わたしたち人間もかならず死にます。このことについては例外はなく、ある意味ではこれほど平等なことはありません。
頭ではわかっているのですが、自分の死ということについて考えはじめると不安や恐怖にかられます。どの時代でも、すべて人間にとって、死ぬということは最大の課題、テーマであり、人間は死んだらどうなるのかとか、死後の世界とか、生まれ変わりとか、よみがえりとか、論じられ続けてきました。
今日の福音書は、ラザロの復活という出来事が記されていますが、この奇跡物語を通して、死の問題について考え、さらに2週間後に迎える主イエスの復活、イースターを迎える心の準備をしたいと思います。
ヨハネ福音書11章のラザロの物語は、私たちにとって、私たちのの想像を越えた、不思議な奇蹟物語ですが、私は、別の意味で不思議に思うことがあります。
イエスは、青年ラザロをよみがえらせました。そして、この時は、本人も、マルタやマリヤも喜びました。近所の人たちも驚きましたが、しかし、よかった、よかったと一緒になって喜んだにちがいありません。しかし、このよみがえらせられたラザロは、その後どうなったのでしょう。イエスに従う人になったと思うのですが、さらに、何年か、何十年か後には、やはりもう一度死んでいることには違いありません。ラザロはいくつまで生きたのか、どのような死に方をしたのかはわかりません。しかし、肉体的に、ラザロは死んでいることには間違いはありません。この奇跡によって、少し寿命を延ばしていただいたにすぎません。ラザロも死んでいるのです。
そのように考えますと、たんに、死んだ人がよみがえったという驚きだけではない、この奇蹟物語を通して、なにかもっと重要なことを示している、私たちに何かを伝えようとしている出来事なのだということです。
2.マルタとマリアへの対応の仕方
ベタニアという村に、姉のマルタ、妹のマリアという姉妹、そしてその弟のラザロという兄弟がいました。イエスは、この兄弟をとっても愛していました。この弟のラザロが病気になりました。姉妹は人をやって、イエスに病気であることを知らせました。しかし、イエスはすぐには、ベタニアには行こうとされませんでした。さらに2日たってから腰を上げられ、イエスがベタニアに到着した時は、ラザロは葬られてからさらに4日が経っていました。
マルタは、イエスが来てくださったと聞いて迎えに出ました。そして言いました。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
イエスは、「あなたの兄弟は復活する」と言われました。
するとマルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。するとさらに、イエスは言われました。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 マルタは言いました。
「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、
「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのもとに行きました。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられました。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。
ここで注意したいのは、マルタもマリアも同じように涙にくれながら、イエスが来られたことを知ると駆け寄って、同じことを言いました。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と。
ところが、マリアに対しては、言葉で伝えようとはせず、行動でこれにお応えになりました。
3.イエスは涙を流された。
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏しました。マリアは、弟の死によって、彼女自身も死に打ち砕かれ、死の支配、闇の支配の下に置かれてしまっていました。愛する弟を失った悲しみに打ちひしがれて、そして、待ちかねていたイエスの顔を見ると、立っていることも耐えられなくなり、イエスの足元にすがりつくようにひれ伏しました。そして、姉、マルタと同じ問いをイエスに発した。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。
イエスは、マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われました。「どこに葬ったのか。」ユダヤ人たちは、「主よ、来て、御覧ください」と言いました。
そこで、イエスは涙を流されました。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいました。イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。
ここで、イエスは、今まで見たこともないような感情を露わにしておられます。「心に憤りを覚え、興奮して言われた」、「イエスは涙を流された」、「イエスは、再び心に憤りを覚えて言われた」と、繰り返し述べられています。イエスは、なぜ涙を流されたのでしょうか。イエスはなぜ憤りを覚えられたのでしょうか。
まず第一に、悲しむ人の気持ちをまっすぐに受け取られた。悲しむ者と共に悲しみ、苦しむ者と共に苦しむ、泣く者と共に泣く人でありました。マルタ、マリアの悲しむ心をまっすぐに受け取られたとのだと思います。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言いました。
しかし、第二に、これに対して、「憤られた」とはどういうことでしょうか。「興奮しておられた」とあります。
それは、死というものが、生理的、肉体的には、その機能が停止することであり、人生が終わった、一生が終わったと言われる状態になることは違いはありません。しかし、神との関係においては、どうなのでしょうか。神との関係においては、死がすべての終わりではありません。神は、生きている者の神であり、この世を支配しておられる方ですが、同時に、死んだ者にも、なお神であり、死んだ者の世界も支配される方であると信じています。
これに対して、人間は、死ぬと墓穴に葬られ、死と闇と滅びの支配の中に入れられたのだと考える。マルタ、マリヤと共に泣いていたユダヤ人たちは、イエスに「主よ、来て、御覧ください」と言いました。墓に葬られているラザロを、言いかえれば「死と闇と滅びの支配に組み入れられてしまったラザロを見てください」と言ったのです。この言葉と同時に、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」という悪魔の挑戦を代弁するものでもありました。神の力を否定し、神の力が及ばないところがあるかのような挑発でした。イエスは、このような悪魔の支配になすすべもなく、ただ嘆き悲しんでいる人々に対して憤り、興奮し、涙しておられます。
そして、イエスは死の支配、悪魔の世界とされる墓穴に入って行き、ラザロをよみがえらせたのでした。
4.わたしは復活であり、命である。
ヨハネ5章28節、29節に次のようなイエスの言葉があります。
「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」
このように予告されています。そして、そのことが、今、ラザロの復活ということによって実現した。実際の出来事として起こったということです。
現代に生きる者として、大切なことは、神との関係において、死をどのようにとらえるかということです。
単に、生理的な自然現象としてだけで、生命、死というものをとらえるならば、復活ということは永遠に理解できません。イエスが死に打ち勝ち、罪の支配、死の支配、悪魔の支配を打ち破り永遠の命の支配をもたらしたことが理解されなければなりません。
イエスが、マルタに答えたメッセージこそが、今日のこの物語のテーマです。23節、25節〜26節。
「あなたの兄弟は復活する。わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
イエス・キリストを信じる者、すなわち、わたしたちのために、わたしたちの罪をあがなうために十字架にかけられて死んだイエスを、死人の中からよみがえらせることができた神を信じる者、神の力を信じる者は、自分が肉体において、死を経験するにしても、この死の状況から新しい命が与えられて生き返らされるということを信じることができるということです。
この出来事のあと、多くの人たちはイエスを信じ、一方、祭司長、長老、律法学者たちは、イエスを殺す計画をすすめていくことになりました。