トマスの疑い−ヨハネ福音書20:19〜29

2005年04月08日
イースターから1週間が経ちました。聖書には、この間に、主イエスのよみがえりにかかわるいろいろな事件が起こったと記されています。  聖書では、一応、時間を追って、その出来事が起こったように書かれていますが、実際は、どのような順序で、どのようにして起こったかはわかりません。  イエスさまは、十字架にかけられて息を引き取られ、弟子たちによって、遺体が十字架から降ろされ、新しい布で巻かれて、墓に葬られました。  夕方から安息日が始まる日でしたから、一同は、それぞれ家に帰り、1日置いて、3日目の朝早く、マグダラのマリヤなど女の人たちがお墓へ行ってみますと、お墓は空っぽになっていました。  そこに白い服を着た天使のような人がいて、  「主イエスはよみがえられた」と教えました。  女の人たちはびっくりして、弟子たちのところに駆けもどり、このことを報せました。  この出来事のあと、復活されたイエスさまは、たびたび、弟子たちに現れ、イエスさまの復活を、はじめは信じることができなかった弟子たちが、だんだんと信じるようになっていきました。  復活したイエスさまが、弟子達に現れた時、その出来事には、またそれが信じられるようになっていく過程には、共通点があります。  まず、第1に、復活したイエスさまが現れても、すぐには、弟子たちには、その方がどこの誰だかわからなかったということです。  いつもイエスさまについて歩いていた弟子たちですから、イエスさまの顔や姿は、よくよく知っていたはずです。ところが、弟子たちにはそれが誰だかわからなかったと記されています。  そこで、第2に、復活したイエスさまは、ご自身がイエスであることを示すために、何か証拠を示しておられます。または、過去にあった出来事を思い出させるような、「行い」「行動」をなさいます。  弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われました。  そして、手とわき腹をお見せになっておられます。そこには、十字架につけられた時に釘で打ちつけられた傷跡があり、わき腹には、ローマの兵士に槍で突かれた傷跡がありました。  ルカによる福音書によると、エルサレムからエマオに行く途中の弟子たちに現れたイエスさまは、宿屋に泊まって、食事の席についた時、イエスさまがパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。その時、2人の弟子たちの目が開けて、イエスさまだとわかったとあります。  また、復活のイエスさまは、ガリラヤ湖の湖畔に現れ、漁をしている弟子達に、亡霊ではないということを示すために、焼いた魚を食べて見せたということが記されています。  さて、今日の福音書のトマスについて、考えてみましょう。  ヨハネの福音書によりますと、まず、墓が空っぽであることが発見された日の夕方、弟子たちのいる家に、復活したイエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」と言って挨拶されました。手とわき腹を見せ、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言い、「聖霊を受けなさい」と言って、彼らに息を吹きかけられました。  この出来事があった時には、12人の弟子の一人であるトマスはそこにいませんでした。帰ってきて、仲間の弟子たちからイエスさまが現れたという話を聞いて、言いました。  「そんなことは信じられない。もしそうだとすると、自分で、イエスさまの手や足にある釘の跡に指を入れてみなければ、わき腹にこの手を入れてみなければ、決して信じない」と言いました。  そして、その日から、8日が経った時、すなわち1週間後に、復活したイエスさまが再び現れ、今度はトマスの前に立たれました。  「さあ、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手をわき腹に入れなさい。」そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。  トマスは思わず、「わたしの主よ、わたしの神よ」と言って、信仰の告白をしました。  このことから、このトマスは、「懐疑者トマス」とか、「実証主義者トマス」とか言われています。  しかし、今日の私たち、現代人から見ると、みんなトマスだと言ってもいいほど、そんなことは、信じられないと言いますし、なかなか納得できません。  現在ですと、DNA鑑定でもしてみなければ、それがイエスであるとは言い切れないというのではないでしょうか。  主イエスの復活を信じるか、信じないかどころか、このイエスを信じる者は、その人もイエスと共によみがえるというのですから、そのことを理解することは、ほんとうに難しいことだと思います。  ここで、イエスさまが、トマスに言われた言葉に注意したいと思います。 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。 「信じる」「信ずる」というこの言葉を辞書で引いてみますと、広辞苑には、「まことと思うこと、正しいとして疑わないこと、間違いないものと認め、頼りにすること、信頼する、信用する」とあります。ということは、そのことを、よく理解して受け入れるということです。納得すること、そして、間違いないものと認めることだというです。 しかし、納得できないことでも、理解できないことでも信じるということもあります。  「復活」ということが理解できない、よみがえった人が現れるということが納得できない、トマスはまさにそういう人だったわけです。その理解できるかどうかということの判断の基準が、自分の目で見て確かめる、自分の指で触って確かめる、いわば人間の見る、聞く、触る、嗅ぐ、味わうという五感が基準になっているわけです。  実証主義というか、それが科学的に実証できるものでないと信じられないということになります。今までに知り得た人間の知識や経験に当てはめて、当てはまるものは信じられる、当てはまらないものは信じられないということになります。  では、人間の感覚というものは、それほど確かなものなのでしょうか。もし、人間の知識や経験の中に入りきれない、もっと大きなものや、出来事があればどのように考えるのでしょうか。それはあり得ない、信じられないという言葉で片付けられるのでしょうか。  しかし、ここでよく考えてみますと、聖書が描いている世界にいる人たち、トマスも含めて弟子たちは、その前提として、神を信じているわけです。神によって造られたもの、生まれさせられて、生かされているものであることを知り、そのように信じているのです。  神の存在を前提とした宇宙観、世界観、人間観の中に生きているのです。神を信じているのです。そうすると、神との関係において生まれ、神との関係において生き、神との関係において死ぬということを受け入れている人たちなのですから、神との関係においてよみがえるということがあっても、当然だということができるのではないでしょうか。  しかし、復活の是非について論じている時には、突然、この「神との関係において」が消えてしまって、科学的な知識や、経験、常識だけで捕らえようとしてしまいます。  突然、キリスト誕生の物語に話が飛ぶのですが、マリアへのみ告げに対するマリアの応答の言葉を思い出してください。(ルカ1:27〜38)  マリアは、天使から告げられました。  「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」 と。  マリアは天使に言いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」  天使は答えました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。神にできないことは何一つない。」  マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」言いました。  「神にできないことは何一つない。」  「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」  マリアには、親類である不妊と言われたエリザベトが懐妊したことが知らされますが、決して自分の身に起こるそのような出来事を実証的に受け止め、理解し、納得したわけではありません。しかし、この告知されたことを受け入れました。  この言葉のやりとりの最後には、科学的な実証や論理や理屈を越えた飛躍があります。  この飛躍とは、「神にできないことは何一つない」という、「神を信じる」ことを前提とし、「神との関係において」ありえて不思議ではないという、違う次元に飛び移ってしまう飛躍です。  私たちが死ぬということは、肉体は土になります。灰になります。火葬場において、拾骨前に引き出される遺骨の塊が死の現実です。  しかし、今、信じている「神との関係において」は、私たちも復活にあずかるのです。  イエスさまは、最後にトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 (2005年4月3日 復活節第2主日 聖餐式説教)