共にいてくださる主

2005年04月13日
ルカ福音書20:13〜35  30:一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31:すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32:二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 1 復活―時間と空間の制限を越える方に  神の子イエス・キリストの復活とは、神が私たち人間と同じ肉体を取ってこの世に来られ、死んでよみがえられた、そして、そのことによって、「時間」と「空間」を超越する方のなられたということです。 私たち人間は、時間と空間の制限の中に生きています。  ここにいるということは、あそこにいない。家にはいないですし、東京にもいません、アメリカにいません。ここのこの場所に、一定の空間を占めて居るということです。  今、生きているということは、10年前、同じ自分は居ませんし、江戸時代にも生きていません。私たちは肉体をともなっているかぎり、時間と空間の制限の中に生きているということができます。  イエスさまも、私たちと同じ人間の肉体を取っておられるかぎり、私たちと同じ時間と空間の中におられたということです。その制限の中に居られました。約2千年昔、イスラエルの国のガリラヤ地方におられました。ということは、同じ時にどこか他の国におられなかったということです。ユダヤ人の一人として、ユダヤ人たちと話をしておられました。  そのイエスさまが、十字架につけられて死に、そしてよみがえられました。  それは、人間の究極の課題である、「死」を体験し、「死」を克服して、神が神に戻られたということです。いいかれば、肉体の制限から解放された、時間と空間の制限を越える方になられたということです。  その結果、復活したイエスさまは、時間と空間を越えて、私たちと共に居てくださるということです。アメリカにも、ロシアにも、インドにも、キリストを信じる者と共に居てくださいます。復活されたキリストが、いつも共にいてくださるということを確信することができるのです。 2 私たちにも主は現れてくださる。―体験談―  私は、日頃、礼拝の説教では、あまり個人的な体験話はしないほうがいいと思っているのですが、今日は、特別におゆるしいただきたいと思います。  その一つは、  私は、少年の頃、川に泳ぎに行って溺れ、死にそうになったことがあります。私は、和歌山県の新宮市という所で育ちました。熊野川という川があって、両親からは禁じられていたのですが、友達に誘われて、こっそりと泳ぎに行きました。川岸から、鉄橋の橋杭まで、ばちゃばちゃとやって、遊んでいたのですが、そのうちに足の届かないところへ出て、溺れてしまいました。もがけばもがくほど深いところへ行ってしまう。何かが足に触っても反対に蹴ってしまう。空気と水が一緒に口の中に入ってくる。手足をばたつかせながら、沈んだり浮かんだりしていました。必死になって叫んでいるのに誰も助けに来てくれない。瞬間、死ぬのではないかと思いました。ほんとうに怖かったことを覚えています。  その時に、一人の男の人が、どこかから来て、じゃぶじゃぶっと水の中に入ってきて、頭まで水の中に入ってきて、わたしを差し上げ、川原まで抱いて連れて行ってくれました。横に寝かして、げろげろ水を吐いているのを見届けて、何も言わずに、その人はどこかへ立ち去って行きました。子供でしたから、お礼も言わず、その人はどこの誰かもわかりません。ただ、今でも溺れている時の恐怖が忘れられませんし、助けてくれたその男の人のことが忘れられません。  川で遊んでいたことを言うと叱られますので、家に帰って両親には何も言いませんでした。しかし、その出来事は、今もはっきり覚えています。 3 よみがえりのキリストは共にいてくださる  私にとって、「助けてもらった」「救われた」ということが、文字通りに、はっきりと体験的に理解できる忘れられない出来事です。  誰にも、一つや二つ、このような経験をお持ちではないかと思います。万死の中に一生を得るというような体験があれば、ふり返ってみていただきたいと思います。  「偶々」、「偶然」、「よくあること」と言ってしまえば、それで終わりですが、しかし、神との関係、信仰をもって、その体験をふりかえってみると、意味が全然違ってきます。  ひょっとすると、あの時、あの場所で、私を救ってくれたのは、私を助けてくれたあの男の人は、実はイエスさまだったのではないかと、あとで考えることができたとすると、その出来事の意味が全然違ってきます。  神との関係、イエスさまとの関係で、その出来事をふり返ってみると、ぜんぜん意味が違ってくるのです。  その時は、わかりませんでしたが、後になって考えてみると、イエスさまが、あの男の人の姿をとって、私に現れてくださった、私を救ってくださった、私と共に居てくださった、と、その出来事を解釈することができます。  2人の弟子が、エルサレムからエマオに向かって旅をしていました。  その道中、途中から、彼らと共に、よみがえったイエスさまが歩かれました。  長い時間、2人には、その方がイエスさまだとは気がつきませんでした。  しかし、最後の一瞬、食事の席で、その方が、賛美の祈りを唱え、パンを裂かれた時、2人の目が、心の目が開かれて、その方が、イエスさまであることがわかりました。  「2人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」とあります。  ただお会いしただけでは、その時には、イエスさまだとはわからなかったのです。  ひょっとすると、反対に、イエスさまに出会いながら、心が鈍いために、私たちの心が鈍感なために、他のことに気を取られてしまって、イエスさまが共に居て下さっていることも、一緒に歩いていて下さることも、見過ごしてしまっているのではないかということもあり得ます。 4 主は私たちと共に  私たちが手にしている祈祷書には、「主が皆さんと共に」、「また、あなたと共に」という言葉がよく出てきます。  これは、初代教会のクリスチャン同志の挨拶の言葉でした。  出会った時にも、別れる時にも、この言葉を交わします。  祈祷書の中でも、だいじな祈りの前は、かならずこの言葉で始まります。  私たちが信じる宗教、信仰は、単なる御利益宗教ではないと思っています。苦しい時だけの神頼みでもありませんし、修行や鍛錬のためだけでもありません。  神が与えてくださったイエス・キリストを神の子と信じて、この方を通して与えて下さった神の恵みを受け、この方を信頼して、この方にすべてをゆだねて、この方がいつも共にいてくださることを信じて、私たちがこの方と共にいる時、そこに救いがある。  私たちは、そのような信仰、宗教に生きているのです。  一口にいえば、「主が共に居て下さるかどうか」、「私たちが主と共に在るかどうか」が、信仰にある生き方を大きく分けることになります。  主の復活は、時間と空間を越えて存在される主イエスさまが、私たちと共にいてくださることの保証です。  毎主日、私たちは、聖餐式をささげます。主イエスさまは、最後の晩餐において、弟子達に、これを食べるたびに、これを飲むごとに、「わたしを記念しなさい」と言って、パンとぶどう酒をお与えになりました。「主の肉を食べる」「主の血を飲む」これほどはっきりとした体感できる「主が共にいる」ことを記念する方法はほかにありません。  私たちはこれから聖餐式を続けます。  「主があなたがたと共にいてくださいますように」  「また、あなたと共にいてくださいますように」  この言葉を交わしながら、主の聖餐にあずかりましょう。 (2005年4月10日 復活節第3主日(A年)説教)