まことの羊飼いであり、羊の門である主

2005年04月17日
ヨハネ福音書10章1節〜10節  復活節第4主日は、「良い羊飼いの主日」といわれて、ヨハネ福音書10章が読まれています。また、この日の福音書にあわせて、「神学校のため」祈り、献金をささげる日とされています。  聖書の舞台になっている世界は、畑を耕す仕事も行われいましたが、多くは牧畜を職業としていました。いわば牧畜民族でありました。  今でも羊や山羊や牛が飼われ、羊飼いが羊の群れを率いて移動している姿をよく見かけます。  羊飼いは、羊の所有者、ご主人から羊の飼育を頼まれ、責任を持って羊の群れを育て、ある程度大きくなると羊を引き渡します。多くの場合、ゆだねられた羊を飼う雇われ労働者です。  羊飼いは、朝になると、主人の羊をその囲いから連れ出して、牧草のある場所に連れていき、また、水場に連れていって水を飲ませ、運動させて、夕方になると主人の囲いに連れて帰ります。  羊飼いは羊の群れの先頭に立って歩きます。羊たちは、その後ろから、黙々とついて歩きます。  イエスさまの話を聞いている弟子たちや他のユダヤ人たちは、ふつうの生活の中で、そのような羊の群れとこれを飼う羊飼いの姿は、よく見て知っている風景です。  このような、身近な出来事、すなわち羊と羊飼いの誰でも知っている日常の生活からたとえに取り上げて、お話になりました。  先ず、第1の部分ですが、1節〜6節では、次のようなことが書かれています。  羊がいる囲いの中に入るのに、2つのタイプの人があります。  1つのタイプは、門を通らないでほかの所を乗り越えて入ってくる人たちです。それは、羊泥棒であり、強盗です。  2つ目のタイプは、その人のために門番が門を開き、門から入ってくる人です。それは羊飼いです。それは、ご主人からちゃんと雇われ、信頼され、責任を負っている羊飼いです。  この羊飼いは、門から入って、羊のところへ行きます。羊飼いは羊たちに声をかけ呼びかけます。羊たちは羊飼いの声をちゃんと聞き分けます。その羊飼いは、自分の羊の名を呼んで、羊の柵からこれを連れ出します。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って野原に出て行きます。羊は、羊飼いの声を知っているのますので、この羊飼いのあとをついて行きます。しかし、羊は、ほかの者には決してついて行かず、無理に捕まえようとすると逃げ去ります。それは、ほかの人たちの声を知らないからです。  このイエスさまのたとえから、私たちは何を学ぶのでしょうか。  イエスさまは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたのですが、彼らには、それが何の話のことかわからなかったと記されたいます。それは、なぜでしょうか。  昨日まで、2泊3日で、宝塚売布の黙想の家という所で、ウイリアムス神学館の新学期前の合宿オリエンテーションがありました。私も参加したのですが、そのプログラムの2日目、1つのセッションで、「聖書のみ言葉の分かち合い」をするという時間がありました。そのテーマとして、取り上げられたのが、この今日のヨハネによる福音書10章のこの個所でした。  みんなで、何回も輪読して、一人一人が黙想して、そして、グループに別れて、その場で感じたことを話し合いました。  その中で、私が属したグループの中の一人の神学生、今年入学した人ですが、このように言いました。  「羊飼いはイエスさまだと思います。そして、私は、囲いの中の羊です。イエスさまは、私の名を呼んで私を連れ出されました。だから、私はウイリアムス神学館へ来て、ここにいるのです。今の自分には、そのようにしか考えられません。」  すばらしい解釈だと思います。聖書の言葉が立ち上がって、語りかける、イエスさまと自分とにスポットライトが当たって、浮かび上がってくるような解釈です。多分、その神学生には、ほかの者の声は聞こえません。イエスさまの声を一生懸命聞き分けようとしているのだろうと思いました。  このことは、聖職者をめざす神学生だけではないと思います。  私たちは洗礼を受けました。その時に、教名、洗礼名をつけられました。それは、イエスさまによってつけられた名前です。イエスさまのものとされたというしるしです。  「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」私たちは、毎日、イエスさまによって、その名を呼ばれているのです。私たちは、毎日、毎日、イエスさまによって連れ出されているのです。  私たちは、その声をちゃんと覚えているでしょうか。赤ちゃんがお母さんの声を覚えていて、聞き分けるように、聞き分けられているでしょうか。その声が遠くなったり、小さくなったり、またその声を忘れてしまって分からなくなっていることはないでしょうか。  反対に、盗人や強盗の誘いかける声ばかりが聞こえて、ほんとうの羊飼いの声が聞こえなくなっていることはないでしょうか。  羊飼いについて行く羊でしょうか。立ち上がって、歩いているでしょうか。従って歩こうとしているでしょうか。  第2の部分、7節〜10節についても、考えたいと思います。  ここでは、イエスさまは、「わたしは羊の門」「わたしは門である」と言っておられます。この門という言葉は、戸、門、入口というような意味で、羊を囲っている柵の戸、入口です。「羊の門」という言葉は、「羊への門」とか「羊のための門」とかいう意味があります。  「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」とイエスさまは言われます。この言葉を裏返すと「わたしという門を通らない者は救われない」という、非常に排他的な言葉です。  「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を観るかも」という古い歌があります。山の頂上に登って月を観ようとすます。その山には、麓から登っていく道がたくさんある。東からも、西からも、北からも南からも、登山口があって、その道は頂上につながっている。どの道から登っても行き着く頂上は一つで、そこから眺める月は同じだという意味です。  世の中に、宗教はたくさんあるけれども、結局、教えていることはどれもみな同じだ、どれもこれもよく似たものだというような意味でこの歌がよく使われます。典型的な日本人的な宗教観を表しているということができます。  若い頃、ある人の家に招かれたことがありました。立派な応接室の壁という壁に、あらゆる宗教の教えや教典を写したものや言葉が、額に入れられたり、掛け軸にして、掲げてあります。般若心経も主の祈りも、祝詞も、南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経も天理教も生長の家も、みんな一緒にずらっと並べてありました。  その人は言いました。「わたしはこの年までずいぶんいろいろな宗教の門をたたき、訪ねました。しかし、結局、どの宗教もみんな一緒ですな。そのことを悟って、わたしは、こうしてみんな掲げていますねん」と。わたしは、この人は、宗教に一生懸命何かを求めながら、結局、何も得られない人だと思いました。信仰をもって生きるということは、何かと何かを比較して選べるものではないからです。自分が宗教を選ぶのではなく、選ばれている自分を知って、はじめて信仰の喜びというものを知ることができるのです。唯一の自分の宗教、信仰をしっかりと持っていて、はじめて他の宗教や信仰を持つ人のことを理解したり、尊敬したりできるものだと思います。  イエスさまは、わたしという門を通ってはじめて、神さまのもとに行くことができる。神を知ることができる。わたしを通ってしか救いはないと言い切られます。そこには、あれかこれもかはありません。あいまいさを許されません。わたしだけを信頼するかしないか、わたしに従うか従わないか、わたしたちに迫っておられるのです。 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」  私たちが、この方にすべてをゆだね、全身全霊をもって、この方に従おうとするとき、私たちの想像を越えた恵みが喜びが、命と力が注ぎ込まれます。溢れるばかりに注いでくださるのです。  さて、私たちはどのようにこれに応えているでしょうか。