「わたしは道である」
2005年04月24日
ヨハネによる福音書14章1節〜14節
ヨハネによる福音書によると、イエスさまは「わたしが行く所にあなたたちはくることができない」という言葉をきっかけに、弟子たちに向かって長い告別の説教が記されています。
弟子たちの足を洗い、イスカリオテのユダの裏切りを予告し、さらに、ペテロは3度わたしを知らないというだろうと言って、ペテロの離反を予告されました。そして、「わたしは今はあなたがたと一緒にいるが、まもなく見えなくなるであろう」と予告されました。
子どもを置いて出かけようとする母親が、不安を感じている子どもに言い聞かせているような感じを受けます。
弟子たちは不安になり、心が穏やかではありません。イエスさまはそのような弟子たちに対して、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と言い、そこから長い最後の言葉を述べておられます。
「わたしの父の家、すなわち神の居られる所には、あなたがたが住む所がたくさんある。もし、それがなければ、わたしは、あなたがたのために場所を用意しに行くなどと言ったであろうか。」
「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。このようにして、わたしの居る所に、あなたがたもいることになる。」
そして、言われました。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている(はずだ)。」
すると、弟子の一人トマスが言いました。
「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
イエスさまが、どこかへ行く、どこかへ行く、と言われるので、トマスは言いました。
「あなたが行かれようとするのはどこか分かりません。その行き先がわかりません。ダマスコへ行く道ですか。エリコへ行く道ですか。ガリラヤへ行く道ですか。どの道で行くと一言おっしゃってくだされば行き先はだいたい分かるのです。それはどの道ですか。」
イエスさまが語っておられる「行く」という意味と、トマスが訊いている「行く」という意味が違っています。イエスさまは、「神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって、人の子に栄光をお与えになる」(13:32)と言われました。
人間の肉体を取った神の子イエスさまが、栄光をお受けになるということは、神が神となるということであり、父なる神のもとへ行かれるということです。
しかし、トマスのいう「行く」は、この地上での行き先を一生懸命訊いています。エリコですかガリラヤですかと。語られている内容の次元が違っていて、会話が噛み合っていないことがわかります。
これに対して、イエスさまは言われました。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」
イエスさまは、たびたび、ご自分のことをいろいろなものにたとえて、象徴して、自己紹介しておられます。
「わたしは、パンである」、「わたしはぶどうの木である」「わたしは良い羊飼いである」「わたしは門である。羊の門である」等々。
そのほかにもいろいろ言葉で表現されています。そして、今日のこの福音書では、「わたしは道である」「わたしは真理である」「わたしは命である」と言われます。真理も命も、それは神のものです。それを得るためには、「わたし」という道を通っていかなければなりません、ということです。
このように、イエスさまは、ご自分の鼻の頭を指さして、「わたしはこういう者なのだ」と自分を分からせようと懸命に自己紹介しておられる姿が浮かんできます。
今日は、とくに「わたしは道である」と言われたこの言葉について考えてみたいと思います。
日本語では「道」という言葉は、さまざまに意味を持っています。
人や車が行き来する所、道路、通路という意味があります。
また、目的地にいたる途中。みちのり。距離。
そして、「世の中の道」とか「人の道に背く」とかいう時には人が考えたり行ったりする事柄の道理、何が正しいかということの基準。
さらに、儒教や仏教では「仏の道」などと言います。手段、方法、方面、分野など、「その道の達人」「歌の道」「武士道」など、などという深い意味があります。
イエスさまが語られた「わたしは道である」とは、道路とか通路という意味だと思いますし、ある目的地にいたる途中のことを言っておられるのだと思います。
ひと口に言えば、「神さまのところにいたる道、神を求め、神に近づこうする時に通って行く道」、言いかえれば「神を知る方法」「神に出会う手段」という意味です。わたしは、神にいたる道です。神をほんとうに知りたい人、神にほんとうに出会いたい人は、わたしを通って行きなさい。わたしを通らずには神に出会うことはできません」と言っておられるのです。なぜなら、わたしは神の子です。父は子のことを誰よりもよく知っている、そして子は誰よりも父のことを知っているからです。
私たちが、神さまを知ろうとしても、神を見ることは出来ません。神の声を聞くこともできません。神の存在を科学的に証明することはできません。
では、私たちはどのようにして、神を知るのでしょうか。
私たちにできる唯一の方法は、イエスさまを信じ、イエスさまを知ることです。そして、イエスさまが指さす方、イエスさまが「父よ」と呼ばれる方、このイエスさまを通して、神を知ることができるのです。
私たちが手に持っている聖書は、目的地、すなわち神さまに至る道、道であるイエスさまのことを書いた地図です。
わたしたちは、この地図にたよりながら、イエスさまという道を通って、神様のところにたどり着くことができるのです。
私は、20年ほど前に、教会関係の会議と研修会があって、約1ケ月、インドに滞在したことがありました。その会議は、バンガローという町であって、そこに滞在していた時のことでした。
ある日の午後、一人でダウンタウンに出かけて行きました。そして、いわゆるゴチャゴチャと小さな店がいっぱい並んだマーケット街に入ったのですが、迷い込んでしまって、道がわからなくなりました。
夕方になり暗くなってきますし、次のプログラムの時間があるので、早く帰らなければなりません。だんだんと焦ってきました。同じところばかりをぐるぐる回ったり、ぜんぜん違うところに出てきたりして、地図を持っていたのですが、自分のいる位置が分からなくなってしまいました。
そこで、中年のちょっとインテリそうな感じの男性に、地図を示して、私は、今どこにいるのか教えてほしいと、道をたずねました。すると、その人は、地図を見ていましたが分からないと言います。そして、周りの人に尋ねました。その人もわからない。次の人も、次の人も、みんな分からないのです。 ふと気がついてみると、廻りには、男の人ばっかり、50人ぐらいの人だかりになっているのです。狭い道路をふさいで、口々にああでもない、こうでもないと議論が始まっているのです。私は、怖くなって、地図をひったくって、その人の群れの真ん中から抜け出し、逃げ出しました。さらに1時間か2時間歩き回って、やっと宿泊している所に帰りつきました。
なぜ、あんなことになったのだろうと、不思議に思っていたのですが、あとになってわかったのですが、その町の人たちは、一生懸命に道を教えてくれようとしたのですが、その人達は、地図というものを見たことがなかったのです。その町にずっと住んではいるのですが、地図を見たのは初めてだとすると、町全体を、上の方から見渡すような感じで理解すること出来ないのは当然です。通りの名前も、地図の上で今どこにいるのかわからない、それで、ああでもないこうでもないと議論が始まったのでした。
道がわからない。どの道を通って行けばいいのかわからない。自分がどの位置にいるのかわからないと言って、地図を見たことがない、地図の見方がわからないという人が、あわてて、地図を取り出しても、その道や位置はわかりません。
人生にいろいろな問題が起こってから、初めて聖書を取り出してみても、そこからすぐには回答は与えられません。
歩いてはいても、地図がなければ、自分が、今、居る場所さえもわからないのと同じように、聖書を通してイエスさまを知ることなくしては、自分の抱えている問題に押しつぶされて、自分のいる位置も道もわからなくなってしまいます。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
イエスさまという道を見失わないようにしたいと思います。