父よ、時がきました
2005年05月17日
ヨハネ福音書17章1節〜11節
1.父よ、時が来ました
ヨハネによる福音書によりますと、主イエスは、弟子たちに長い訣別の説教をした後、引き続いて17章では、天を仰いで、お祈りをされました。
いよいよ十字架への道、苦しみが始まろうとしています、天の父のもとに帰る時が来ました。子である神、キリストが栄光を現すと同時に、そのことを通して父である神の栄光が現される時でもあります、と祈られます。
聖書には、この「時」という言葉が重要な意味を持っています。
イエスさまは、父である神のみ心を説き、当時のユダヤ教の指導者たちの偽善、不信仰をきびしく非難しました。そのために、彼らの恨みを買い、捕らえられ、裁判にかけられ、十字架につけられて死にました。言いかえれば、ユダヤ教の指導者、すなわち祭司長、律法学者、長老たち、そして、彼らによってそそのかされた群衆によって殺されてしまったのですが、しかし、それは、たまたまそのようになったとか、偶然そのようになったのではないというのです。さらに、このようにユダヤ教の指導者たちの意思のままに翻弄されて、その出来事がおこったのではないのです。
イエスさまが苦しみを受け、十字架につけられたのは、神さまのご計画の中であり、神さまの意思によるものであったということが強調されています。
「父よ、いよいよその時が来ました」と、イエスさまが言われることは、イエスさまご自身も、そのことがわかっておられ、単に受身の姿勢ではなく、積極的に、いよいよその使命を果たす時が来たということをはっきりと表されました。
その以前に、カナという所で、イエスさまと弟子たちがの婚礼に招かれた時、ぶどう酒が足りなくなったことがありました。イエスさまの母マリアがイエスさまに「ぶどう酒がなくなりました」と言ってきました。その時、イエスさまは言われました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだきていません」と言われました。しかし、結果的には水をぶどう酒に変える奇蹟を行われました。これは、ヨハネ福音書においては、最初の奇蹟でした。(2:4)
また、ユダヤ人の仮庵祭の時でした。イエスの兄弟たちが「ガリラヤから出てユダヤに行き、あなたのしている業を多くの人々に見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいなません。自分を世間にはっきり示しなさい。」と言いました。兄弟たちも、イエスさまを信じていなかった(わかっていなかった)のです。その時にイエスさまは言われました。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられました。しかし、その後、イエスさまは人目を避けて隠れるようにしてエルサレムに上っていったと記されています。(7:1〜10)
そのほかにも、「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである」(7:30、8:20)と何カ所かに「時は来ていない」と記されています。
イエスさまが苦しみを受け、十字架につけられたあの出来事は、たまたまそのようになったのではないのです。神さまが定め、神さまが決定された決定的な時があったのです。
このことを、わたしたち側から言いかえますと、神さまが決められた決定的な恵みの時を意味します。そして、今、その時を前にして、主イエスは祈られます。「父よ、時が来ました。」
私たちにも、神さまは、それぞれに「時」を与えられます。イエスに出会い、神に出会う時が与えられています。
2.「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(3節)
ヨハネ福音書には、この「永遠の命」という言葉がよく出てきます。「永遠の命」とは、文字通りの解釈をしますと、「始めもなく終わりもなく果てしなく長く続く生命」ということになります。仏教用語からきている言葉に四苦八苦という言葉があります。この最初の四苦とは、人間のもっとも基本的な4つの苦しみ、それは、生、病、老、死と言います。生きること自体が苦しみであり、病気、老いること、死ぬこと、それは、いずれも生命短くすることです。生命がなくなること、死んで自分がなくなること、これは人間のもっとも恐ろしいことであり、苦しいことであり、避けたいと思っていることです。いつまでも生きたいと願っています。
ヨハネ福音書以外の福音書では、天国とか神の国という言葉が使われています。永遠の生命とは、限りのある生命ではない生命、それは、天国や神の国と同じ意味であるととらえられています。
では、天国、神の国、永遠の生命は、どのようにして手にいれることができるのでしょうか。
「永遠の命とは、唯一のまことの神と、神がお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と、イエスさまは明言されます。
永遠の生命とか天国、神の国というと、何か捕らえようのない、抽象的な頭の中の想像のもののような気がします。しかし、これに対するイエスさまの答えは、いたって具体的です。それは、唯一の神さまを知ることであり、イエス・キリストを知ることだと言われるのです。
私たちは、すでに、神さまのことやイエスさまのことは聞かされていますし、いろいろなことを知っています。では、私たちはもうすでに永遠の生命、天国、神の国に至っているのでしょうか。その実感あるでしょうか。
ここで、だいじなことは、「知る」という言葉です。
私たちは、いろいろなことを知っていますが、その知り方というものはさまざまです。
具体的な例で考えてみますと、私たちは、人と出会い、多くの人と人間関係をもって生きています。その時の、人を知るということについては、その知り方は千差万別です。
その人の顔や姿形を知っている。生年月日を知っている。血液型を知っている。学歴を知っている。今までの経歴や仕事について知っている。その人の家族構成も知っている。趣味も知っている。いろいろな好みも知っている。このような知り方、名刺の肩書きや履歴書の内容のようなことをくわしく知っていれば、しかし、ほんとうにその人を知っていることになるのでしょうか。それは、知識としての知り方、理性による知り方だということができます。
これに対して、顔や形は知っているけれども、履歴書の内容のようなことは何も知らない。しかし、その人の優しさに触れ、何かに打ち込んでいる情熱に魅力を感じてしまった。あの人を愛してしまった。あの人と一緒にいれば心が安まる。そのような知り方というものもあるのではないでしょうか。これは、知識的な知り方に対して、人格的な知り方、頭よりも心で知るような知り方だと思います。
それは、心から受け容れ、理解し、分かり合い、委ね合う、信頼しあう、信じ合うことができる関係だと思います。
神さまやイエスさまと出会い、そして、知るということは、そのような人格的な関係を言います。
キリスト教の信仰について、知っていると言っても、いろいろな知り方があります。教会の雰囲気、礼拝の雰囲気だけを楽しんでいる人、それがキリスト教というものだと思っている人がいます。
キリスト教の教理や歴史や音楽や、その関係の本をいっぱい読んで、知識として、キリスト教のことをいっぱい知っている人がいます。何百冊の本を読んだから、それでは、神さまを知った、イエスさまを知ったということになるのでしょうか。永遠の生命に触れることができたでしょうか。
神と人格的関係を持つ。イエスさまと人格的関係を持つ。それはどういうことでしょうか。それは、子どもが、お父さんやお母さんとの関係を持つことと同じような関係です。信頼関係です。肉親であるがゆえの争いや甘えということもありますが、根底には血がつながっている自分の体の延長のような安心と信頼と、そして愛の関係です。
2節ではこのように祈られます。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」
イエスさまを神から遣わされた神の子、また、神を啓示する方であると信じることを決断する人には永遠の生命が与えられるのです。
イエスさまが、父からゆだねられた人というのは、ひとり子イエス・キリストを信じる者のことであり(3:16)、イエスを受け入れた人、その名を信じる人々のことです。(1:12)
さて、私たちは、神をどのように知る知り方をしているでしょうか。イエスさまに対してどのような知り方をしているでしょうか。
永遠の生命を真剣に求めているでしょうか。
そして、最後に、弟子たちのために、私たちのために、このように祈られます。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(11節)
(2005年5月8日 復活節第7主日(昇天後主日)説教)