わたしはぶどうの木

2005年05月17日
ヨハネ福音書15:1〜5  大阪の豊中市の庄内というところに、庄内キリスト教会という教会がありまして、そこには小さな保育園が同じ敷地内にあります。  ある時、教会の信徒の一人の方が、ぶどうの木の苗を一本買ってきて、教会の軒下に植えて帰りました。聖書にはぶどうの木のお話があるので、教会にぶどうの木があったらすばらしいと思って買ってきましたというのです。その木が大きくなって、実がいっぱいなったらそれでぶどう酒を作って、聖餐式ができたら良いですねと言って、その信徒はそこに植えました。しかし、予想に反してぶどうの木を育てるのは難しい、ひょろひょろと伸びても実はつかない、枯れかかっているような状態だったいいます。  何年かたって、ある時、その保育園の園児のお母さんと子どもが、1羽の雄の鶏を連れてきました。夜店で売っていたひよこがあんまり可愛いので子どもにせがまれて買ったというのです。ベランダで、毎日水や餌をやって、育てたのですが、こんなに大きくなってしまいました。だが、困ったことに、その鶏がおんどりで、朝早くからコケコッコーと鳴くようになり、近所から苦情が出て、うちではもう飼えませんので、保育園に寄付したいと申し出られ、子どもたちのために飼ってやってくださいということでした。  その教会の牧師は、子どもも喜ぶでしょうといって、これをもらい、教会の窓の下に自分で小屋を作ってこれを飼いました。ところが、次の日から毎朝、朝早くから、大きな声で鳴くので家族はゆっくり寝られないし、保育園の園児を突くし、匂いはするし、卵は産まないし、世話はしなければならないし、大変なものをもらってしまったと後悔しながら、役に立たないおんどりをそれでも仕方なく飼っていたというのです。  そのことからしばらく経って、夏が来て秋になりかかった時に異変というか、奇蹟が起こりました。特別のことをしていないのに、さきほどのぶどうの木が例年になく、突然よく稔り、秋にはぶどうの実がいっぱい実ったというのです。ぶどう酒とまではいきませんでしたが、礼拝後に、教会の信徒一同で美味しい美味しいといって食べたと言います。特別の手入れもしていないのに、みんなで不思議ことが起こるものだと話し合っていました。  しばらくして、教会と保育園で、下水工事をすることになり、業者が来て、教会の玄関の前を掘り起こしました。その時に、その水道屋さんが、「先生、先生」と言って呼びに来ました。教会の玄関の前を横切って太い何かの根が伸びていますどうしましょうと言ってきました。その牧師が行ってみると、確かに太い根が地面の下を這っています。その辺りにはそれらしい木も植わっていません。 そこで、その根をたどってみますと、それがぶどうの木の根であることがわかりました。そして、その先の方をたどってみますと、それは、あの鶏小屋まで伸びていました。その間隔は、教会の建物の端から端まで10メートルぐらいはあります。鶏の糞が鶏小屋の床から地面に落ちて地面にしみ込み、そこから、ぶどうの根に肥料を提供していたのです。  何の役にも立たないと嫌われていた鶏のおんどり、この鶏が、人間の見えない所で役に立っていたのです。そして、その鶏小屋の下まで根を伸ばしていったぶどうの木の生命力、私はこの話しを聞いたとき、感動しました。  ぶどうの木の話が出てくるたびに、この話を思い出すのです。    今日の福音書で、イエスさまは「わたしはぶどうの木である」と言われます。今日は、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」という、ヨハネ15章5節のこの言葉から学びたいと思います。  みなさんは、どこかで「ぶどうの木」をご覧になったことがあると思います。ぶどう狩りに行ったとか、バスの窓から、ぶどう畑を見たとか、日本でも、山梨県の方に行きますと、ぶどう畑が延々と続いているのが見えます。  ご覧になるとわかるのですが、ぶどうの木は、それほど太くない木の幹から、枝がのびて、ぶどう園のぶどうなどは藤棚のようになった棚を伝って、枝が10メートルも15メートルも伸びています。そして、地下の根の方もたくましく伸びていきます。  イエスさまが、この身近な植物、ぶどうの木を取り上げて、ご自分のことを説明しておらます。  一本の幹から伸びる長い長い枝、ぶどうは、つる性の植物ですから、ほかの木や石垣にしがみついてどんどんと伸びていきます。先が見えなくなるほどその枝が伸びても、その枝が、幹につながっていなければ、幹から切れてしまうと、すぐに枯れてしまいます。どんなに青々と繁った枝も葉も、実をたわわに稔らせていても、もとの幹から切り離されてしまうと、すぐに枯れてしまいます。  イエスさまは言われます。わたしはぶどうの木だ、幹だ、と。 ぶどうの木が、地面に根をはって、地中から水分を吸い上げ、栄養分を吸い上げ、これを大きな枝に、そして、小さな枝の先端まで、これを送ります。いわば生命がつながっています。水や肥料が供給されてはじめて生きて成長していけるのです。  このことを、今日の私たちに当てはめて、もっと具体的に考えてみましょう。  それは、私たちの教会のことが語られているのです。  教会とは、何でしょうか。建物でしょうか。牧師でしょうか。単に信徒が集まっている集団でしょうか。私たちは、月曜日から土曜日まで、社会で、学校で、家庭で、その他いろいろな所で、まったく別のことをして生活をしています。そして、毎週、日曜日、このように礼拝に集まってきます。私たちは、年齢も、生い立ちも、職業も、経歴も、何も共通点を持たない人たちの集まりです。  しかし、唯一、共通点があります。それは、あのイエス・キリストという方を信じているということです。または信じようとしているということです。イエスさまに対して、「あなたこそ、キリストです。あなたこそ神の子です」と信仰告白をして、ここにいるということです。または、そのように信仰告白をしたいと思って、ここにいるのです。  教会とは何か、それを、ちょっと難しい言葉で言いますと、それは「イエスは主であると信仰告白した人たち、信じようとしている人たちの共同体」です。これを「信仰共同体」といいます。  パウロは、このように言いました。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(�汽灰螢鵐�12:27) また、 「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:22,23)   教会とは、キリストの体です。キリストはその頭です。私たちは、手であり、足であり、耳であり、目であり、その体につながっている部分、肢体です。  このことを言いかえますと、私たちは、自分ひとりだけでは、クリスチャンではありえないのです。私たちは、体につながっている部分、手足として、また、ぶどうの木につながっている枝として、はじめてクリスチャンであり得るのです。  洗礼を受けるということは、このように、キリストの体の一部となることであり、ぶどうの木につながるということです。  世の中のたくさんの宗教がありますが、ここにキリスト教の特徴の一つがあります。ひとりで聖書を読んで、ひとりでお祈りして、自分で神様を信じていればクリスチャンだとは言えないのです。  旧約聖書の時代には、いつもイスラエル民族、イスラエル部族が中心であり、イスラエルの民の一員としての信仰が問題にされています。 新約聖書の時代になって、イエスさまは、イスラエルの12部族に代わるものとして、新しいイスラエル、12人の弟子集団、使徒たちをお選びになり、これを教会の中心としました。  教会の歴史をふり返るといろいろな事件があり、過ちを犯した時代もありました。しかし、神は、つねにこの教会を通して、その時代に対して、ご自身を現し、そのために、教会に使命が与えてきました。  私たちは、ぶどうの木、太い幹につながる枝です。また、キリストを頭とするキリストの体の部分です。枝は幹につながっていなければ枯れてしまいます。手や足は体につながっていなければ死んでしまいます。それは、私たちの信仰が枯れて、朽ちてしまうことを意味します。反対に、しっかりとつながっていれば、葉を繁らせ、実を稔らせます。手足は元気に動いて、頭の命じるままに立派に働くことができます。  礼拝堂には、ぶどうをかたどった彫刻や刺繍がたくさん用いられています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」この言葉が形になって示されています。このデザインは私たちの信仰の先輩たちから私たちへのメッセージです。  教会の重要な営みは、共に礼拝をささげることです。そして、聖餐に与ります。キリストの体、キリストの血をいただくことによって、私たちは養われ、育てられるのです。わたしたちが、キリストにつながっていることを体中で感じることができる瞬間です。感謝と賛美の祭りに共に喜びの声を上げましょう。 (2005年5月1日 復活節第6主日(A年)説教)