「いつもあなたがたと共にいる。」
2005年05月27日
マタイ28:16〜20
16:さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17:そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18:イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19:だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
今日は、「三位一体主日」という日です。私たちは、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊なる神、三つであって一つである神を信じるという三位一体の神を信仰することを確認する日です。私たちの信仰の状態を吟味する時、もっと、もっと正しい信仰を持たせて下さいと祈る時でもあります。
さて、そのことを頭に置きながら、本日の聖書の言葉から学びたいと思います。
今日の福音書は、マタイ福音書の最後の部分です。復活のイエスがガリラヤにおいて弟子たちに命じられた最後の命令が記されています。 そして、その中でも、一番最後の言葉、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という言葉について、考えてみたいと思います。
世の中には、たくさんの宗教があって、それぞれ自分の信じているものが一番正しい、いちばん素晴らしいと思って信じているわけですが、キリスト教の信仰にも、いくつかの特徴があり、これだけは知ってほしいと思うことがあります。わたしは、最もよく特徴を現し、だいじな教えとして、この言葉を繰り返し心に思っています。マタイは、この言葉で福音書を終わっています。イエスが弟子たちに語られた最後の言葉です。
世の終わりは、いつ、どのようにして来るのか、私たちにはわかりません。しかし、神は、天地を創造される神であり、すべてのものをお造りになり、存在させ、支配する方です。「初め」をお造りになった方ですから、また、この方によって「終わり」がもたらされると私たちは信じます。
「世の終わりまで」ということは、私たちが生きていようと、死んでいようと、生きている者にも、死んだ者にも神であり主である方、神と共にあるイエス・キリストが、終わりまで、最後まで、ずーっと変わりなく、いつまでも、どんな時にも、私たちと共にいて下さると
いうことを約束して下さっているということです。
私たちが生きている人間同志の社会にあっても、「共にいる」、「共にいる関係」ということが、幸福な生き方と不幸な生き方に分かれる鍵になること、私たちもよく知っています。そして、共にいる、共にいつづけるということの難しさもよくわかります。
家族として一緒に住んでいる、一緒の職場で朝から晩まで顔をつきあわせて仕事をしている、だから一緒にいる、共のいるということも言えません。大勢の人々に取り囲まれていても、その中で何とも言えない寂しさを感じたり、孤独感を持ったりすることがあります。反対に、たった一人の人を思い、遠くに暮らしていてもいつもその人と共にいることを確信することができ、満たされて生活することもあります。
カトリック作家、遠藤周作の作品に「死海のほとり」という作品があります。「沈黙」「イエスの生涯」という作品にあわせて、この作家のキリスト教をテーマにした3部作の一つと言われています。
ここで遠藤周作が描いているイエス像は、「無力なイエス」と言われました。人々の前で華々しく奇跡を行って見せて、人を驚かせる、格好いいイエスではなくて、何とも弱々しい無力なイエス、無力なキリストを描き出しています。神学者ではなく、文学者として、一つの解釈をし、独特のイエス像を示したものとして、この作品が出版された当時、話題になりました。
その1節をご紹介したいと思います。
イエスについて歩いて、旅に疲れた弟子達が、なぜ俺たちは、こんな所までこのイエスという人についてきてしまったのだろうと話し合います。その弟子の一人、アルパヨは、仲間たちの端で、自分がなぜあの人について歩くようになったかを思い出していました。
1年ほど前のこと、熱病にかかったアルパヨは、ガリラヤ湖の寂れた岸の近くの小屋で苦しみながら死を待っていました。アルパヨは激しい寒さに襲われ、悪寒が去ると今度は高熱にうなされねばなりませんでした。うわごととうめき声は、小屋の外、遠くからでも聞こえるほどでした。友人はもちろん肉親さえも彼を看病するために来てはくれませんでした。彼は悪霊に憑かれていると怖れ、近づくと自分たちも悪霊に取り憑かれると信じていたからでした。淋しい人が来ない所に建てられた小屋に隔離されたのでした。
1日に1度、小舟に乗った兄弟が、小屋から離れた岸に水を入れた小さな壺と食べ物を置いて、後ろも見ずに急いで立ち去って行きました。彼、アルパヨは、苦しい中で、自分を見捨てた身内や友人を恨み、憎み、このような運命にあわせたものを呪いました。
ある日、小屋の戸がきしむ音を立てて開き、一人の男が小屋に入って来ました。そして、その人は、アルパヨの顔を濡らしている汗を布で拭いてくれました。水を飲ませ、少しずつ食べ物を口に運んでくれました。薬草を煎じた薬を与え、彼が眠るまでじっと横に座ったいました。高熱にうなされ、アルパヨが悲鳴とも絶叫ともつかぬ声をあげる時、その人は、小さな声で言いました。「そばにいる。あなた一人ではない」、その人が手を握ってくれると、苦しみは不思議に少しずつ減っていくような気がしました。「そばにいる。あなた一人ではない」その声は昼も夜もアルパヨの頭の中で聞こえていました。
そして、ある朝、彼が目を覚ました時、熱はすっかり去っているのを感じました。その人は疲れ果てて膝の上に頭をのせたまま眠っていました。体がようやく回復すると、彼はその人に従う男女の群れに加わっていました。だが、アルパヨもまた、ほかの弟子達がいうように、その人の哀しい眼を知っていました。その人がどんなに努力しても、すべての病人がアルパヨのように治るとは限らなかったからです。母を失った子供や、夫に死に分かれた妻が、なぜ治してくれなかったのかと言う時、その人の眼には辛そうな光がありました。
遠藤周作という作家が描いた「死海のほとり」という小説の一部ですが、聖書のイエス・キリストを、無力なイエス、いつも哀しい眼をしていたイエスとして描き、決して華々しく奇跡を行って人を引きつけるような方ではありませんでした。しかし、すべての人々から見捨てられ、誰からも見放された人と共にいて、最後まで立ち去らなかった人、共にいる人、「そばにいる。あなた一人ではない」と、小さな声でつぶやき続けた人、そして、その結果、人をいやし、立ち上がらせた人、そのために大勢の人がその後について歩いた、そのような人として描いています。
さて、聖書の言葉に戻りますが、マタイ福音書の最後の言葉、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」ですが、私には、この言葉が、遠藤周作が描くイエスの、「そばにいる。あなた一人ではない」という言葉に聞こえるのです。
復活したイエスは、いつもわたしたちのそばにいてくださる。あなたのそばにいて下さる。あなた一人ではないのだよとささやいてくださる。必ずしも熱病にうなされなくても、生きるか死ぬかの病気にかからなくても、忙しい、忙しいと走り回っている中で、何とも淋しい時がある。何ともいえない孤独感に襲われることがある。思わぬことが起こったり、人の心がわからなくなったりすることがある。親子といえども、夫婦といえども、どんなに親友だといえども、立ち入れない、話せない、わかってもらえない時もある。みんな立ち去ってしまうように感じる時もある。しかし、イエスは立ち去らない。イエスは、そばにいて下さる。「あなた一人ではないのだよ」と言って下さる。
私たちがイエスを信じるということは、そのようなイエスを信頼し、確信するということです。
そして、イエスがそうであったように、イエスにならって、私たち自分自身も、隣人に対して、「わたしはあなたのそばにいますよ、あなた一人ではないよ」と言える人でありたいと願っています。
〔2005年5月22日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日聖餐式説教〕