平和ではなく剣を

2005年06月25日
マタイ10:34−39  先週、6月21日から23日まで、奈良県吉野郡吉野、桜の名所として有名な吉野山で、京都教区の教役者修養会がありました。  今回のテーマは「他宗教との対話」―修験道に学ぶ―とあり、2日目のプログラムには吉野山金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂の見学、そのお寺の執行長田中利典先生という方から、修験道について講義を聴きました。  修験道とは、日本古来の山岳信仰と仏教、とくに密教や法華思想が結びついて形づくられたものと言われます。吉野という所は、いわゆる、法螺貝を吹き鳴らしながら大峰山を縦走し、修行する山伏が集まるメッカと言わています。  そこで、その講師の田中先生という方が、最後に、キリスト教やユダヤ教やイスラム教が、一神教であるのに対して、日本の古来の宗教は、八万の神々を信仰する神仏混淆の多神教的宗教であると説明されました。すべてを呑み込む共生の宗教であり、日本固有の文化であるとも言われました。  たしかに、日本の仏教や神道神社が持つ神、仏についての考えは多神教で、私たちも日本人として何らかの影響を受けているような気がいたします。  現在、世界のあちこちで戦争が起こり、続いていますが、その多くが一神教文化圏の国々であり、唯一の神、自分の信じる神以外は、認めない、受け入れられないと言い張るところに原因があると言われます。  パレスチナやイラクで起こっている戦争、これに関わっているアメリカも一神教文化のもとにあることは事実ですし、現在、そのことから一神教とは何かということが話題になっています。  一神教の神を信じる者がみな、戦争を起こすようなことを言われますと、少々抵抗を感じますが、厳密に世界の歴史をふり返ってみますと、必ずしもそうとは言い切れません。仏教国でも、ヒンドゥー教でも、民族間の殺し合いは続いていますし、国境付近でのいざこざも絶えることはありません。そう簡単に結論づけることはできないと思います。  しかし、今日の聖書、とくに福音書を見ますと、指摘されていることが裏付けされるような、ドキッとするような言葉が出てきます。  イエスさまは言われます。  「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」と。  この言葉の背景には、キリスト教迫害が強くなり、迫害に苦しめられていた初代教会の状況があります。主イエスが亡くなって50年ぐらいが経ったその当時には、クリスチャンであるというだけで捕らえられ、牢に入れられ、殺されるというようなことが、次々と起こっていました。そのために、教会の群れから離れていく人たちもいました。教会の中での人間関係、またそれぞれの家庭においてさえ、その関係が壊れ、争いが絶えないというよなことが起こっていました。  イエスさまに出会わなかったら、イエスさまを信じなかったら、クリスチャンにならなかったら、こんなに苦しい思いをしないですんでいただろうと思うようなことがあったにちがいありません。イエスさまがこの世に来られたから、平穏無事に過ごしていた生活に剣が投げ込まれ、敵対関係が生まれ、平和ではなくなったのです。  確かに見える結果では、「平和ではなく、剣をもたらすために来た」と言っても過言ではありませんが、実はその向こう側にある大切な意味を考えてみなければなりません。  ヨハネの福音書では、イエスさまがこの世に来られたことを、「光が世に来た。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:5)と表現しました。暗闇の中で、正しいものも正しくないものも、善も悪も、混沌としてうごめいている。そこに一条の光が差し込みました。すると正しいものと正しくないものが、くっきりと浮かびあがり選り分けられ、悪いものとがあぶり出されました。  別の言葉で言いかえますと、「新しい価値観」がもたらされたのです。何が正しいか、何が正しくないかという道徳的なことだけでなく、いかに生きるべきか、ほんとうの幸せとは何かを問い、答えをもたらしたのです。  正しいものを正しいと言い、正しくないものを正しくないと言った時、そこには必ず抵抗が起こります。分裂が起こります。当然、争いが起こります。  平和だ、平和だと思っている家庭にも、イエスに従おうとする者と、従いたくない者とが、同じ屋根の下にいる家庭では、息子は父と、娘は母と、嫁はしゅうとめと敵対することになるのは目に見えています。(ミカ7:6)  この世に来たイエスさまという光は、あたりをぼんやりと照らす光、または影を消してしまう蛍光灯のような光ではありませんでした。真昼の太陽の光のようにくっきりと輪郭を浮かび上がらせ、黒い影を落とさせるような光です。  イエスさまは言われます。  「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」そして、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と。  わたしに従うのですか、従わないのですか、考え方、生き方、日々の生活において、イエスに従うのか従わないのか、どちらですかと迫ります。 まあまあとか、そのうちにとかいうあいまいな答えはありません。  自分の力で命を得ようとする者、自分の力で幸せになれると思っている人、自分が、自分で、自分のためにと思って、自分の力のみに頼ってやみくもに走っている人は、その命は得られませんし、かならずそれを失ってしまいます。反対に、イエスさまのため、イエスのために命をささげようとする者は、ほんとうの命、幸せ、天国を得ることができるのですと言われます。  パウロは言います。(ロマ14:7〜9)  「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」 私たちは、キリストのために人を愛します。それは、神が私たちのために    キリストを与え、私たちを愛してくださったからです。 私たちは、キリストのために人に仕え、人に奉仕します。それは、キリス    トが、まず、私たちのために仕えてくださったからです。 私たちは、キリストのために生きます。神が私たちの命を与えてくださっ    たからです。 私たちは、キリストのために死にます。それは、その前に、私たちのため    に、キリストが死んでくださったからです。 私たちは、キリストのために礼拝をささげます。それは、私たちに神が特    別の恵みを与え、私たちが神に感謝し、神を賛美する方法を示してく    ださったからです。