天国は次のようなものである

2005年07月24日
マタイ13:31−33,44−49  イエスさまは、天国のことを教えるのに、多くの場合、「たとえ」をもって話されました。  今日の福音書では、「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」「宝が隠された畑のたとえ」「良い真珠のたとえ」「網にかかった魚を選り分ける漁師のたとえ」という5つのたとえ話が語られています。  さらに加えて、先週の主日の福音書は、「良い種と毒麦のたとえ」が語られ、さらにその前の主日には、「種まきのたとえ」の聖書の個所が読まれました。  これらのたとえのテーマは、「天国」とか「天の国」なのですが、イエスさまは、この天国について語られるときに、「天国とは何か」というような形で、定義したり、哲学的な言葉を使って、論理をまくしたてて、説得して「わかったか」というような話し方はなさいませんでした。  イエスさまの話を聴いている群衆にわかりやすいように、種まきや、麦と毒麦の話や、からし種、パン種、畑に隠された宝、真珠というような、日常の生活の中のどこにでもあるような材料を取り上げての話しておられます。  その当時の人たちにはわかるやさしい話だったのでしょうが、時代が変わり、場所が変わって、現在の日本の都会に住む私たちには、解説がなければわからなくなっているものもあります。  また、イエスさまは、いっぺんに、一個所で、このような「たとえ話」をなさったわけではなく、あちこちで、ちがう場所で話されたものが、その話の断片が集められ、編集されて、このように並べられたものだと言われています。マタイ福音書を書いたマタイという人は、同じテーマの話や、できごとをまとめて編集する傾向があったようです。  さて、このような、「たとえ」で語られている「天国」とは、どのようなものでしょうか。ここに語られたたとえをもって、イエスさまは何を教えようとしておられるのでしょうか。  聖書の中では、「天国」という言葉は、「神の国」、「永遠の命」と同じ意味だということができます。またさらに「神の義」、「救い」ということとも同じ意味を持っています。それは信仰生活の究極の目的であり、私たちが信仰生活の中で、一生懸命求めているもの、求めなければならないものだということです。  「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31〜34)と、イエスさまは言われました。  私たちは、イエスさまを信じると言いながら、毎日、朝から晩まで、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』というようなレベルのことばかりを思い悩み、今日のことだけではなく明日のことまで思い悩んでいます。  そのようなレベルのことを求めて、お祈りをして、それが信仰だと思っています。イエスさまは、そんなことは思い悩むな、それよりも、もっとだいじなものを求めなさい、それは、何よりもまず、一番先に、神の国と神の義を求めなさいと、はっきりと言われるのです。  はたして、私たちは、何よりも優先して、何よりも真剣に「神の国=天国」を求めたことがあるでしょうか。求めているでしょうか。  天国=神の国というと、それは死んでから行くところ、死んだ人が行くところだと思っていますので、それはもっと先の問題だと考えているのではないでしょうか。  ルカによる福音書にこのような場面があります。(ルカ17:20,21)   ある時、ファリサイ派の人々がイエスさまの所に来て尋ねました。   「神の国はいつ来るのでしょうか」と。  すると、イエスさまは答えて言われました。  「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言 えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」  神の国とは、どこかにあって、また、いつ、どのようにして来るというようなものではないと言われるのです。  神の国とは、神さまが支配する国、神さまのみ心が、隅々まで、細かいところまで徹底して、行き渡っているそういう状態をいいます。  そして、それは、今、イエスさまによって、もたらされている、実に、今、あなたがたの中にいるではないかと言われるのです。  言いかえれば、それは、神さまと私たち人間の関係のことであり、イエスさまとの関係がどのような状態にあるかということです。  そのような天国=神の国を、頭に描きながら、今日の「たとえ」をもう一度見てみましょう。  最初のたとえですが、  「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」というたとえです。  からし種とは、クロガラシという植物の種を指すと言われています。もとはアジア地域に生えている野草でしたが、その種から油が採れるためにひろく栽培されるようになりました。水が十分に与えられると茎の高さが4メートル、5メートルにもなり、4月から6月ごろには黄色い花をつけ、そのあとにさやにつまった黒い種がとれます。ゴマ粒よりももっと小さい種です。明らかに野菜の一種なのですが、大きくなるので、木のようになるといわれています。  このたとえは、神さまとの関係は、その発端がどんなに小さな目立たないようなものであっても、結末、結果は想像もつかないほど大きくなるということが語られています。さらに、神様との関係が小さなところから始まっても、最後には大きな大きな結果が約束されているということです。 私のような小さな者、神さまとの出会いもそんなに特別のドラマもない私のような目立たない、ごく平凡な信仰、その小さな者の神さまとの小さな出会いが、だからと言って、現在の小ささに失望することはない。約束されている成長の結果の大きさから、現在の自分の姿を見たときに、大きな希望が与えられます。天国とはそういうものですよと言われます。  「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って3サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」()  パンを作るときに、最初のごく少量のパン種、ふくらし粉、イーストが、粉全体を大きくふくらませるということを言っています。1サトンは12.8リットルと言いますから、38.3リットルのメリケン粉に入れて、一晩寝かせて発酵させると粉全体を大きくふくらませ、たいへんな大きさになります。このたとえも「からし種」と同じように、最初の状態とその結果の大きさの違いを比べて教えておられます。  3番目のたとえ、44節を御覧下さい。  「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた 人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払 って、その畑を買う。」  イエスさまの時代にはこういうことがよくありました。立派な建物や、信用できる銀行のような制度がない時代ですから、人々はお金や宝石など財宝を手に入れると壺に入れて、土を掘りこれを埋めてかくしました。それは、泥棒や強盗、兵隊がやって来て何もかも奪い取ってしまう、略奪から財産を守るもっとも安全な方法でした。ところが、その持ち主が死んでしまったり、その地域が戦争で滅ぼされてそこに住んでいた人たちが、捕らえられ、遠い所に連れていかれて奴隷にされ、他国に売り飛ばされてしまうというようなことがありました。土の中に埋められた財宝はそのまま残され、土地も人の手に渡ってしまうというようなことがありました。  たまたまその土地を耕していた農夫が、これを偶然に発見し、掘り出しました。その土地は、自分のものではありません。その人は地主ではありませんでした。小作人だったのでしょう。その人が、たまたまたいへんな宝物を掘り当てたのです。その財宝を自分ものにするためには、まずその土地を自分のものにしなければなりません。そこで、その宝物をそこに隠しておいて、家に帰り、今まで持っていた物を全部売り払ってお金をつくり、地主にかけ合って土地を買いました。天国とはそのようなものだと言われるのです。  この人が、宝物を発見した時の喜びはどんなものだったでしょうか。かれがこの宝物を手にいれたのは、労働の成果ではありませんでした。長い期間こつこつと汗水流して働いて、麦をつくりそれを売って得たお金ではありませんでした。まさかと思う、予想もしなかった宝物を見つけたのです。しかし、この宝物はこの人の人生を変えてしまうものでした。今までの生きてきた成果ともいうべき自分の持ち物を全部売ってでも手に入れなければならない価値のあるものでした。  イエスさまは、天国=神の国を、このようなものですよと教えておられます。そして、その神の国の中身、その実態については、ご自身を指さし、私があなた方の中にいる、あなたと共にいる、あなたがわたしと共にいるその状態だと言い続けておられるのです。 神さまは、そのひとり子をこの世に、私たちのために、あなたのためにお与えになりました。それほど私たちを愛してくださっています。その愛を恵みを受け取る、信じて、信頼して、従おうとすることこそ、天国=神の国です。      〔2007年7月24日 聖霊降臨後第10主日(A年-12〕説教〕