カナンの女の信仰

2005年08月18日
マタイ15:21〜28  現在、世界中で50ヶ所以上の地で、国と国、民族の間で戦争が行われているといわれます。イスラエルとパレスチナ、イラクでの戦争状況、毎日のように報道されていますが、同じ地域、同じ国にあっても、民族間の争いや憎しみは根強いものがあり、何百年、何千年経っても忘れられない根の深い問題が、それぞれの背景にあります。  そのような民族や宗教の違いからくる差別を思いながら、今日の福音書、マタイ15:21〜28から学びたいと思います。  この聖書の個所には「カナンの女の信仰」という見出しがつけられています。  イエスさまはティルスとシドンの地方へ行かれました。このティルス、シドンという町は、パレスティナの北、地中海に面したフェニキアという地方にある町で、異邦人の町でした。ユダヤ民族の住む地域から見ると異教徒の町、異国の町で、イエスさまはその地方に行かれました。  そこで、イエスさまは一人の女の人に会いました。この女性は「カナンの女」あったといわれています。カナン人というのは、かつて、イエスさまの時代から1270年も昔、モーセに率いられてイスラエルの民が、40年間、シナイの荒れ野を彷徨い、神に導かれて到着したのがカナンの地でした。そこにイスラエル民族が侵略し、定住してしまった土地でした。カナン人は、先住の民族で追いやられて民族ということになります。  イエスさまの前に現れたこの女性は、カナン人の子孫でずっと北の方のフェニキアの国に生まれた人でした。  ユダヤ人からすると、明らかに異邦人です。  ユダヤ民族は、ヤーウェの神を信じる民、アブラハムの子孫で神によって救いと繁栄が約束されている民族と自覚していました。ユダヤ人は、救われて当然、それに対して、その他の民族は、異邦人であり、異教徒であり、それだけで罪人であり、救われるはずがない、滅びて当然であると考えていました。  とくに、イエスさまの時代には、イスラエル、すなわちユダヤ人は、選民意識だけが強く、神さまが、イスラエルの民を通してすべての民族、全世界の国々に御自身をあらわそうしておられる、そのために与えられた自分たちの使命を忘れていました。  異邦人であるこのカナンの女がイエスさまの所に来て訴えました。  「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にとりつかれて、苦しめられています。助けてください。どうか娘を助けてください」と、繰り返し叫びました。  しかし、これに対して、イエスはさまは何もお答えになりませんでした。沈黙を守っておられたのです。  そこで、弟子たちがイエスさまに近寄って来て言いました。  「この女を追っ払ってください。いつまでも、どこまでも、叫びながらついて来ますから」と。ユダヤ人である弟子たちは、この明らかに異邦人である女には追っ払うことしか考えがありません。  すると、イエスさまは言われました。  「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになったのです。  イスラエルの民の心は頑なで、神のみ心に従おうとはしません。とくに保身に明け暮れする宗教的指導者の姿は目に余るものがありました。イスラエル全体が信仰を失い、神の導きを求めてただ頼りげなくさまよっているだけの有様です。  イエスさまがこの世に来られたのは、まず、そのような失われた羊たちを養うことにあります。イエスさまに与えられた使命は、何よりもこのイスラエルを救いに導くことにあります。まことの羊飼い、救い主、メシヤとして、この世に来られたのです。特別の使命を持ってこの世に来られたことを表されます。  しかし、このカナンの女は、さらにしつこく、イエスさまのところに来て、イエスさまの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と叫びつづけました。  イエスさまは、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになりました。本来、子どもに与えるべきパンを、子どもに与えないで、これを取り上げて、犬に、子犬に与えるべきではないと言われました。  あくまでもイスラエル民族を通して世界に救いを与えようとする神さまのみ心、宣教のご計画に基づくべきであることを示されました。これに従おうとされました。  これに対して、カナンの女は言いました。  「主よ、ごもっともです。しかし、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただくことができます。」  この婦人は、「うちの子どもは子犬ではありません」とか、カナンの子どももユダヤの子どもも一緒です。うちの子どもも病気を治してもらう権利があります」とも言いませんでした。イエスさまの言われる言葉をそのまま受け入れ、その上で言いました。  「ごもっともです。しかし、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただくことができます。」  これに対して、イエスはお答えになりました。  「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」 そして、そのとき、このカナンの女の娘の病気はいやされました。イエスさまは、奇跡を行われました。「あなたの信仰は立派だ」と褒められた本人に奇跡が起こったのではなく、その信仰によって、遠くにいるこの女の娘が癒されたのです。  このカナンの女の何が、どこが褒められたのでしょうか。どのような信仰が褒められたのでしょうか。  それは、一口にいえば、この女の「謙虚な信仰」「謙遜さ」にあります。同じように神さまに頼っていても、わたしも、娘も、救われて当然です。救われるべきですというような信仰と、あなたの食卓で堂々と食べ物を受け取り食べることができるような者ではありません、食卓から落ちるパン屑でも結構です。お恵み下さいという信仰とでは、大きな違いがあります。 選ばれた民であるから、先祖と約束された事実があるから、救われて当然ですと言って胸を張って当然のように正しさを主張するユダヤ人と比べると、傲慢な信仰と謙遜な信仰がはっきりと比べられます。  さて、このイエスさまからほめられたカナンの女の信仰と比べて、私たちの信仰はどうでしょうか。イエスさまにほめられるような信仰を持っているでしょうか。  先ず第一に、私たちも「救い」を求めてはいるのですが、このカナンの女のように、真剣にしつこくすぐに応えて頂けず、沈黙で応えられても、それでも叫び続けついて回れるでしょうか。弟子たちに追い払われても、黙れと言われてもついて行くしつこさはあるでしょうか。また、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」というような、あなたにはその立場にはないと言われても、なお食い下がるしつこさはあるでしょうか。救ってほしいのです。今、救ってください、今です、と、イエスさまに迫る迫力はあるでしょうか。娘の病気の癒されることを願う母親の一途な気持ち、これしかない、ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、そういう壁を全部乗り越えて、ただ、助けてくださいと叫ぶ。この婦人と私たちの救いを求める姿を比べてみたいと思います。  第二に、この女性の謙遜さに学びたいと思います。現代の私たちのものの考え方は、何かというとすぐに権利の主張をします。私にはそれを受ける権利がある、なにかを要求する権利があると、大人も子どももみんな自分自分の権利を主張します。そして、権利と権利がぶつかり、争いが起こったりします。権利を主張することのすべてが間違っているとは思いません。しかし、そのような考え方が発想が、体中に染みついて、神さまとの関係や、信仰の姿勢にまで及んでいるとすればどうでしょうか。神は、すべての人々を愛すると言った。だから、私も神から愛されるべきだ。神はすべての人々を救うために、この世にひとり子を与えた。だから、私も救われるべきだ。救われて当然だ、というような姿勢で神さまに救いを求めるとどうなるのでしょうか。神の愛も救いもそれは、恵みとして与えられるものです。ほんとうの信仰への条件は、神の前にまず謙遜であること、徹底的なへりくだり、悔い改めにあります。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただくことができます。」  謙遜の反対の言葉は、傲慢です。そして、傲慢こそ、イエスさまが徹底的に嫌われる大きな罪です。クリスチャンであるがゆえに持つ傲慢があります。「わたしは洗礼を受けました。神の子とされたのです。神さまは天国を約束してくださっています。だから安心です。何をしても赦されるはずです。」自分の姿を省みることをせず、人を裁きます。信仰生活が長くなればなるほど陥る傲慢があります。青年は青年の傲慢があります。男性の傲慢、女性の傲慢、そして、年を取ると、体中にいっぱいへばりつく老人の傲慢があります。  救いは、今のこの世においてもたらされています。そのためには、まず、神にたいして、イエスさまに対して、謙遜でなければなりません。神の前に謙遜になって、はじめて人に対して謙遜になることができます。 〔2005年8月14日 於・聖アグネス教会 聖霊降臨後第13主日(A-15)説教〕