「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

2005年08月21日
マタイ16:13〜20  教会の暦の「聖霊降臨後の主日」に入って、マタイによる福音書が読み継がれてきました。その内容は、イエスさまは、きびしくさまざまなことを教えられました。また、「天国はこのようなものである」というたとえで天国について語られました。そして、5千人の人々に食べ物を与える奇蹟や湖の上を歩く奇蹟や、病人を癒す奇蹟などが続き、奇蹟を人々に示されました。このようにして、弟子たちに教え、集まった群衆に教えてきたのですが、今日の福音書は、その一連の弟子たちや人々に対する教育の成果として、最も大切な結論が語られています。  まず、最初に知っておきたいのは、これが語られたのが、「フィリポ・カイサリア地方に行ったとき」であったと記されているということです。  このフィリポ・カイザリア地方というのは、パレスチナの北の方、ガリラヤ湖から40キロも北東に行ったところにある町で、かつて、紀元前 20年頃、ローマの皇帝アウグストゥスがヘロデ王に与えたという土地です。ヘロデ王は、この町に皇帝のための神殿を建て、皇帝カイザルの名を取って、この町をカイザリア名づけました。このように、この町には皇帝を神として仰ぐ皇帝崇拝を象徴する神殿があり、ギリシャの神々、とくにパン神を祭る神殿があり、さらにパレスチナの古い自然神バールの神を祭る根拠地であるという、さまざまな自然神や政治的な神々がうようよする異教の土地において、あえて、弟子たちに問われたのでした。  「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。イエスさまは、ご自分のことを「人の子」と呼ばれます。旧約聖書にはこの言葉は特別の意味をもった言葉でした。  「人々は、わたしのことを何者だと言っていのか」  この問いは、単に人の人気を気にしたり、世論調査をするようなものではないことがわかります。「わたしのことを何者だと思っているのか」「わたしのことを誰だと言っているのか」と尋ねられました。  これに対して、弟子たちは、耳にしたこと、人々から聞いたきたことをそれぞれに4通り答えました。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人がいます。『預言者エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『預言者のエレミヤだ』という人もいます。また、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」   洗礼者ヨハネについては、当時の人々には記憶も生々しい出来事があったばかりでした。厳しい戒律を守る集団に属し、人々に罪の悔い改めを迫り、ヨルダン川で洗礼を授けていました。時の領主ヘロデとヘリディアとの結婚のことについてきびしく追求したために、この王によって捕らえられ首をはねられるという事件がありました。この洗礼者ヨハネの再現として、イエスさまを受け入れている人たちがいました。  エリヤは、紀元前9世紀の北王国イスラエルの預言者でした。マラキ書3:23には、「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と預言されています。当時、エリヤは、世の終わりの時にはメシアに先だって出現すると期待されていた預言者でした。このエリヤが現れたのだという人たちがいました。  エレミヤは、紀元前6世紀の南ユダ王国が滅ぼされようとする頃の預言者でした。エレミヤは、当時の国際的な情勢からエルサレムと神殿の滅亡が必ずもたらされると見ていました。その時なは、宗教の内面化、すなわち「新しい契約」としての心の宗教を説き、イスラエル民族が生まれ変わることを説いた大預言者でした。エリヤと同じく世の終わりの時には神の使命を受けて現れると信じられていました。イエスさまのことをこの預言者エレミヤの生まれ替わりだと受け取る人たちもいました。  そのほかにも、過去に活躍した預言者たちの姿を想い浮かべ、その中の一人だと見ている人たちもいました。  弟子たちの周りにいる人たちの多くは、イエスさまのことを、普通の人ではないということはわかっています。何か神に近い、神から与えられた能力を持った特別の人、預言者の誰か、預言者の一人という受け取り方はしていました。しかし、それは、イスラエルの過去の歴史の中にいた人物、宗教的な指導者の生まれ変わり、再現という範囲の中で理解しようとするものでした。言いかえれば、過去の経験と知識の中でだけ捉えたイエスさまの姿でした。  イエスさまは、今度は弟子たちの方に向き直って尋ねました。  「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。  その時まで、イエスさまは、弟子たちに多くのことを教え、たとえ話で語り、数々の奇跡を行ってこられました。この質問は、弟子たちがこれをどのように理解し、受けとめることができたかを試される最終的な、根本的な問いでした。  これに対して、ペトロが、弟子たちを代表して答えました。 「あなたはメシア、生ける神の子です。」  それは、周りの人たちが歴史の中から、過去をひも解いて出てくる答えではありませんでした。モーセでもない、ダビデでもない、どの預言者でもない、あなたこそ救い主です。あなたこそキリスト、すべてを支配し、すべてを導き、すべてを審き、「生きて働く神」の子です。神の子です。  その答えは満点の、十分に的を射た答えでした。イエスさまが期待しておられる信仰の告白でした。  イエスさまはお答えになりました。  「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」  そのことを知ることが出来るのは、単に人間の知恵や経験からでるものではない。自分で考えて、思索によって出される結論でもない。それをさせるのは「わたしの天の父なのだ」。聖霊の働きがそれを導き出す、私たちを促し、前に突き出す神の意志が働いているだと言われます。  最高の褒め言葉と共に、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」  ギリシャ語でペトロという名前は、アラム語でケファーといい、いずれも「岩」という意味です。しっかりとした信仰告白と頑丈な岩を掛けて、その上に教会を建てると言われました。  家を建てるためには土台がしっかりしていなければなりません。砂の上に立てた家はすぐに倒れてしまいます。教会の土台も、その基礎は、しっかりとしていなければなりません。教会の土台、基礎とは、しっかりとした信仰告白、正しく的を射た信仰告白であり、その上に立ってこそ、初めてしっかりとした教会が建てられるのです。  さて、私たちの教会は、しっかりとした土台の上に建っているでしょうか。私たちが毎主日、礼拝をささげる教会、この礼拝堂は、建物としては歴史を誇り、美しさを誇り、目に見える建物は立派です。しかし、ほんとうの教会は、その建物の中身です。この教会の建物にあふれる信仰、そこに集う信徒の信仰告白の中身が、主にほめられるものでなければなりません。教会は、「あなたこそキリストです。あなたこそ生ける神の子です」と心から信じ、告白する人たちの群れです。この方に、イエス・キリストに、生きるも死ぬこともすべてをゆだね、従おうとする信仰が教会に満ちていなければなりません。  そのためには、私たち一人一人の信仰の状態はどうでしょうか。イエスさまとの関係はどうでしょうか。見えている体、肉体は生きています。他の動物と同じように毎日の生活を営んでいます。しかし、神のかたちに似せて神さまから造られた人間として、ほんとうに人間になっているでしょうか。  ほんとうの人間になるためには、第二の生まれ変わりが必要です。神によって生まれた者は、神によって生きる。そのために神との出会いが必要です。さらにそのためにはイエスさまとのほんとうの出会いが必要です。 今、イエスさまが私たちの前に立って尋ねておられます。 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。  ニケヤ信経は、私たちの信仰の告白です。大きな声ではっきりとこれを唱え、イエスさまの問いに答えたいと思います。  ご一緒に信仰の告白をいたしましょう。 (2005年8月21日 聖霊降臨後第14主日(A-16)説教)