神のことを思わず、人間のことを思っている
2005年08月28日
マタイ16:21〜72
1 ペトロという人
イエスには、12人の弟子がいました。それぞれ、イエスに呼び出され、イエスについていった人たちでした。決して特別の地位や才能がかわれてイエスの弟子になった人たちではありません。魚をとる漁師であったり、徴税人であったりという平凡な人たちでした。
ペトロは、バルヨナ・シモンとかケファとか呼ばれ、いちばん最初に弟子にされた人でした。その前は、ガリラヤ湖で魚を取る漁師をしていました。兄弟アンデレと共に、イエスについて来なさいと言われて、何もかも捨ててついて行った人でした。
ほかの弟子たちと一緒に、イエスのいちばん近いところにいて、教育され、訓練されてきた人でした。神のことについて、いろいろな教えを聞く時も、数々の奇蹟を目の当たりにする時も、いわばいちばん前の席で見たり聞いたりしていたに違いありません。
ペトロは、弟子団を代表する兄貴分のような立場にあって、何かにつけてイエスに答えてきました。
先週読まれた福音書の個所によりますと、
イエスは、弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになり、弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人もいます。『預言者エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『預言者エレミヤだ』という人もいます。『そのほかの預言者の一人だ』と言う人もいます」と答えました。するとイエスは言われました。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」するとペトロが一同を代表して答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。
この答えに対して、イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とお答えになりました。ペテロの答えは百点満点で、イエスは、これ以上ない言葉でほめられたのです。
2 正しい信仰告白と無理解
このことがあって、すぐ、イエスは、ご自分について、重大なことを弟子たちに打ち明け始められました。それは、「御自分は必ずエルサレムに行って、ユダヤの長老、神殿の祭司長、ユダヤ教の律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている」という受難と復活の予告でした。
弟子たちが、「あなたこそ救い主、生ける神の子です」と、百点満点の信仰の告白ができた、その直後に、弟子たちの予想とはまったく違って、イエスは、ユダヤ人の議会に引き出されて、判決を受け、殺される運命にあるということを打ち明けっれたのです。
ペテロたちは、これを聞いて驚きました。仰天しました。
イエスは、なぜ、このような予告をなさったのでしょうか。
私たちには、その後に起こっている出来事がわかっていますから、予告されていることの意味や内容が、ある程度わかります。
イエスは、予告された通り、ユダヤの役人やローマの兵隊に捕らえられ、ユダヤ議会に引っ張っていかれ、裁判にかけられ、ローマの総督、ポンテオ・ピラトの所に引っ張っていかれ、また、ユダヤ議会に引き戻され、一晩中引き回された後、鞭打たれ、侮辱を受け、十字架を担がされ、そして、最後に、ゴルゴタの丘に連れていかれました。そこで、十字架に釘付けにされ、磔になって、疲労と衰弱、苦しみもだえながら息を引き取りました。
しかし、それだけでは終わりませんでした。3日目の朝早く、イエスを葬ったお墓に行ってみると、お墓は空っぽになっていて、「あの方はよみがえったのだ」と知らせる者がいました。
イエスは、その出来事が起こること今から確実に苦難と死に向かって進んで行くということを予告されたのです。この第1回目の予告に始まって、3回も同じ予告なさったのです。
それは、これから起ころうとする苦しみと死の出来事が、たまたま、偶然に起こったことではなく、また、単にユダヤ教の指導者の嫉妬や抹殺計画、群衆の扇動によって引き起こされた彼らの計画によってそうなるのではない、これは、神の計画によるのだ、神の意志、神の御心によって行われるのだということを明らかにしておられるのです。
言いかえれば、神の救済計画、その愛するひとり子をこの世に与え、その命を与えることによって、人々の罪の代償とし、神との和解をはかろうとされる救いの計画が、神のイニシアティブの下に行われようとするのだということでした。
しかし、ペテロたちには、そのほんとうの意味が理解できませんでした。
それを聞いたペトロは、イエスをわきへ連れ出して、いさめ始めました。そして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といいました。すると、イエスは振り向いてペトロに言われました。
「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
ペトロにとっては、「とんでもないことです。死ぬなんてことは簡単に言わないでください。あなたは救い主なのですから、あなたにはまだまだしなければならないことがあるでしょう。そんなことは滅多なこと言わないでください」ということだったのだと思います。
「イエスは振り向いてペトロに言われました。」この時のイエスのまなざしは、たぶん、恐いような厳しい目でペトロをご覧になったと思います。
「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
弟子でありペテロを「サタン」悪魔、と呼びました。この言葉は、イエスが人々の所に姿を現す前に、荒れ野に導かれ、40日間の断食をし、祈りの時を持たれた、その時のことを思い出します。そこに悪魔、誘惑する者が現れ、「この石をパンに変えてみよ」「ここから飛び降りてみよ」「わたしの前にひれ伏してみよ」と次々と誘ってきます。飢えと渇きの肉体の限界の中で、神との関係を邪魔するものとして、サタンが現れ、イエスを試みたのです。イエスは、「悪魔よ、退け」と言ってこれをことごとく追い払いました。
ペトロは、この時の、あの荒れ野における悪魔、誘惑する者、サタンの役割を、今、果たそうとしています。それは、神の計画を変更させようとすることであり、これに従おうとするイエスを試し、引き戻させようとするものでした。
ペトロは、イエスに対して、「あなたはメシヤです。あなたは生ける神の子です」と言いました。あなたは救い主です。神が使わされたキリストです。そのことはわかっています。固く信じています。しかし、ペトロが考えている救い主、メシヤ像というのは、当時のユダヤ人が持っているメシヤ像とかわりがないものでした。それは、現実の社会や生活を変えてくれる方であり、具体的なは、ダビデ王のような強い王が現れることでした。 ローマ帝国の圧政、ユダヤ王の横暴、ユダヤ教指導者たちの堕落、ユダヤの民は、経済的にも、社会的にも、宗教的にもあらゆる面で困窮し、疲れ果てています。今こそ、ダビデ王が再来して、人々を圧迫し、苦しめている者どもを蹴散らし、ほんとうの指導者の下に住みよい生活を与えてくれる、そのようないたって現実的なメシヤ、救い主となることを頭に描いていたのではないでしょうか。
しかし、神がなさろうとする救いの計画は、そのようなものではありませんでした。具体的に目に見える姿は、ただ、弱々しく、何の抵抗もせず、黙々とひかれ、十字架につけられ、苦しみもだえながら息を引き取ったイエス、まったく想像さえできないメシヤ、救い主の姿でした。
諫めようとしたペトロの言葉は、神の御計画を、またこれに従おうとするイエスの意思を変更させようとするものでした。
「おまえは、神のことを思わず、人間のことを思っている。」
「おまえたちは、わかっていない。神の御計画のことを思わないで、自分たちの人間的な知識や経験や欲望のことばかりを中心にして考えている。わかっていない」と、弟子たちの無理解を叱っておられます。
3 ペテロに見る私たちの姿
さて、この大事な場面でのペトロとイエスの対話を見て、私たちの姿はどうでしょうか。ペトロは弟子たちを代表しています。そして、また私たちの信仰のあり方が、問われています。
私たちは、毎日、神にいろいろなことを願い求めています。救いを求めています。自分をも含めてすべての人々が救われることを、ほんとうに幸せになることを願っています。
しかし、その願いごと、求めていることの内容や方向は、正しくピントが合っているでしょうか。具体的に、神に何を求め、何を願っているのでしょうか。それは、ただ、自分の欲望、野心、欲求を満足させてくださいとだけ願っていることはないでしょうか。
神が、私たちに何を与え、何を求てほしいと願っているかということを考えたことはあるでしょうか。神が与えようとすることと、私たち人間が求めているものが全く違っているとすれば、その願いは、祈りは何なのでしょうか。ピントがずれてしまっているというだけではなく、ほんとうの宗教とは何かが問われることにもなります。
「神のことを思わず、人間のことを思っている。」と、ペテロに言われたイエスの言葉を物差しにして、わたしたち自分自身と神の関係について、考えてみたいと思います。
(2005年8月28日 聖霊降臨後第15主日(A-17) 説教)