喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
2005年09月05日
ローマの信徒への手紙12:15
1 倫理的宗教
世界中には無数の宗教があります。人間の歴史の中で、人間の営むいちばん古い文化というと宗教的な儀式や習慣であり、宗教を持たない国や民族はないと言っても言い過ぎではありません。人類の歴史の中で、次々と新しい宗教が生まれ、また、消えていく宗教もあります。さまざまな形態、種類、教義や教理というものがありますが、その中で、倫理的宗教と言われるものとそうでない宗教があります。
倫理的宗教とは、人間が「いかに生きるべきか」「いかにあるべきか」ということを教え、また何が善で何が悪かの基準を定め、そのために道徳や倫理、規範、律法を持っている宗教のことを言います。
反対に、人間の生き方や在り方には、あまり触れず、ただ願いごと、祈りの対象としての神や仏を置いているというような宗教もあります。
一方では、倫理を持たない宗教は消えてしまうともいわれます。
世界の4大宗教といわれる宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、そして仏教は、それぞれ厳しい戒律があり、ただ、神に願望や欲望お満たすための宗教に比べて「いかに生きるべきか」が強く教えられています。
さて、今日の主日は、使徒書から学びたいと思います。
ローマの信徒への手紙12:9〜21節は、聖書の見出しでは、「キリスト教的生活の規範」となっています。この手紙はパウロがローマにいるキリスト教徒のために書き送った手紙の一部です。西暦55〜6年ごろに書かれたと言われますから、イエスが死んでから20年ぐらいが経ったころです。
この「キリスト教的生活の規範」は、冒頭に「愛には偽りがあってはなりません」とありますように、「愛」がテーマです。
2 共に喜び、共に泣く
その中で、15節の「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という言葉に注意を向けたいと思います。
この言葉を一口に言えば、人と共感するということだと思います。しかし、単に、「共感」という言葉では片付けられないもっと深い意味があるように思います。
たとえば、美味しいものを食べて、「美味しいね」と感想を述べます。すると一緒にそれを食べている人も「美味しいね」と言います。ただ一人で黙々と食べている時よりも、お互いに「美味しいね」と言って感想を言い合い共感している時の方が、喜びは大きいということはあります。単に同じ感想を持ち合うというだけではない、もっと深い所にかかわる、共に生きるということだということです。
8月は、広島・長崎の原爆記念日があり、15日の終戦記念日があり、テレビも新聞も、かつての太平洋戦争の回想し、戦争の残酷さや悲惨さを改めて紹介していました。現在、あまり使わないことばですが、「戦友」という言葉があります。戦場で共に戦った友、生死を共にした友人、ほんとうに今、次の瞬間に死ぬかもしれないと覚悟した時に、その恐怖、不安、覚悟を共にした友人、まさに共に生きたという経験は、生涯忘れられない特別の関係を感じると言われています。
戦争など再びあってはなりませんし、戦友という言葉など使われない方がいいのですが、命にかかわって共に喜び、共に泣き、共に生きることをあらわす言葉だと思います。そういう意味で、信仰を共にするクリスチャンの関係は、神さまにひたすらな熱意を持ち、自分自身を献げようとする戦友でなければなりません。
3 共に喜び、共に泣く人イエス
さて、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く人としてイエスを見たいと思います。
聖書の中で見るイエスは、父なる神と一つになるとき喜びにあふれておられます。
ルカ10:21-22「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。』」
「イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた」とあります。
何を喜ばれたのでしょうか。どんなことを喜ばれたのでしょうか。
それは、「父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はいません。父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が選んで示そうと思う者のほかには、だれもいません。』それは、父と子の間のお互いの愛によって始めて知ることができるということです。父なる神は、このナザレのイエスは誰なのかをほんとうに知る唯一の方です。そして、子であるイエスは、父なる神がどのような方なのか、そのほんとうのみ心を知るのは唯一の子だけなのです。父と子の間にある愛がこのことを認識させるのです。
このことを言い表す時には、イエスは聖霊と共に喜びにあふれておられました。
では、イエスはどのような時に「共に泣いておられる」のでしょうか。
ヨハネ11:33-36「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。」
愛するマリアとマルタの姉妹の兄弟ラザロが死んだと聞かされ、ベタニヤに行き、この姉妹が泣いているのを御覧になって、イエスは、先ず泣かれました。涙を流されました。マリヤ、マルタと共に涙を流す方でありました。そして、その後でラザロを復活させるという奇蹟を行われました。
4 心から人を愛する
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くということは、ほんとうに心から人を愛するということです。そして、心から人を愛するということは、喜ぶその人と共に喜び、泣くその人と泣くことだと言うことができます。
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くためには、その人の喜びが理解され、その人の悲しみが受け入れられていなければなりません。「わかった、わかった」と言葉だけで、口先だけで受け入れられているのではなく、その喜びが、その悲しみが自分のものになっていなければなりません。
もし、私たちが、自分のためにしか喜ぶことができない、自分のためにしか悲しむことができないとすれば、まったく愛のない生き方に身をおくことになります。
父が子をしっかりと認識し、子が父をしっかりと認識した時、聖霊と共に喜びにあふれたイエスのように、愛することにのみ認識し合える喜びを体験して生きたいと思います。
(2005年9月4日 聖霊降臨後第16主日(A-18)説教