「どちらが父親の望みどおりにしたか。」
2005年09月25日
マタイ福音書21:28〜32
イエスさまが語られるたとえ話の中に、ぶどう園で働く人の話がたびたび出てきます。今日の福音書マタイの21:28〜32でも、父親が2人の息子に、ぶどう園で働きなさいと言ったという「たとえ話」です。
お父さんが、兄と弟の2人の息子に、「ぶどう園へ行って働きなさい」と言いました。
まず、兄のところへ言って、「ぶどう園へ行って働きなさい」と言うと、この兄は、はじめは「いやです」と言ったのですが、その後で考え直して、ぶどう園へ行きました。
しかし、もうひとりの息子、弟の所へ行って、お父さんが、「ぶどう園へ行って働きなさい」と言うと、「はい、わかりました。承知しました」と、答えましたが、ぶどう園には行きませんでした。
イエスさまは、「この2人の兄弟の、どちらが父親の望みどおりにしたか」と尋ねられました。当然、この話を聞いた人たちは、「兄のほうです」と答えました。誰でもすぐにわかるやさしいたとえ話です。
何かを頼まれたり、命令されたりして、初めは「いや!」と返事していても、後で、気持ちが変わって、頼まれた通りにした、命じられたようにした、そういう人と、初めに「はい、はい」と言って、調子のいい返事をして、全然その通りにしなかった人では、これを頼んだ人、命じた人が受ける心証は違います。
このたとえを通して、イエスさまは、何にをわからせようとしておられるのでしょうか。
まず、このたとえは、誰に向かって語られたのかということです。
このたとえの直前の聖書の個所を見ますと、「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った」とあります。
エルサレムの神殿に仕える祭司長や祭司たち、ユダヤ人の長老たち、彼らはサンヘドリンと言われる議会の議員でありました。その時、彼らが、イエスさまなに、「神殿の境内で両替をしたり、祭壇に犠牲をささげるために羊や鳩などを売って商売をしている者たちを追い出したり、人々の前で教えたりしているが、あなたは何の権威があってそんなことをしているのか。誰からその権威を与えられたのか」と尋ねにきたのでした。
その問答の続きに、このたとえが語られていますから、イエスさまがこれを話したのは祭司長や長老たち、当時の宗教的指導者、政治的指導者に対してであったことがわかります。
もう一度、たとえ話に話をもどしますと、
父親から、「ぶどう園へ行って働きなさい」と言われて、いちばん理想的なこたえは、「はい」と答えて、すぐに出かけて行って、ぶどう園で一生懸命働くことだと思います。
これに対して、兄は、いいえと答えたのですが、その後で考え直して、ぶどう園へ行きました。一方、弟の方は、「はい」と答えて、ぶどう園には行きませんでした。
イエスさまの前にいる人々の中で、「いいえ」と答えたのは、神の律法を守らず、神の言いつけを守れないと非難されていた徴税人や売春婦たち、異邦人たち、ユダヤ人から罪人であるとレッテルを貼られている人たちのことでした。その生き方は、一度は「いいえ」と言って神に背く姿勢を見せています、しかし、後になって、思い直したということは、自分の罪の深さを自覚し、罪を悔い改め、神を信じ、神に従う人になりました。
これに対して、「はい、はい、わかりました。行きます、行きます」と答えて、返事はよかったが、結局、ぶどう園には行こうともしなかった弟とは、祭司長たち、長老たち、律法学者たちのことを言っておられます。
返事はいい、調子はいい、彼らは見せかけの返事はするけれども、そこには、神のみ心に従おうとするほんとうの誠実さはありません。
自分たちは律法を守っている。自分たちは正しいと自負している。儀式や形式について厳しいことを言い、うわべはもっともらしいことを言ってますが しかし、実際は、神のみ心に従おうとはしない、偽善者の祭司長たち、長老たち、律法学者たちでした。
かつて、あのバプテスマのヨハネが、ヨルダン川のほとりに現れて、人々に罪の悔い改めを迫りました。徴税人や売春婦たち、罪人と言われる人たちは、ヨハネの言葉を聞いて、悔い改めました。
しかし、ユダヤ人の宗教的指導者、政治的指導者には、「ヨハネの悔い改めを受けよ」という、言葉には耳を傾ける者はいませんでした。
「たとえ」で語られて、「誰が父親の望みどおりにしたか」と尋ねられると、「兄の方です」と、どちらが正しいのかはすぐにわかります。誰にでもその答えはわかります。しかし、それが、自分のこととなると、わからなくなりますし、自分の姿はそこには見えないということがわかります。
私たち自身の姿をふり返ってみましても、自分の罪を認めるということは、ほんとうに難しいことだと思います。そういう意味で、私たちはほんとうに弱い者、醜い者だと思うことがあります。
お父さんが、2人の息子たちに、どうして欲しいのか、何を望んでいるのか、それはわかっているのです。しかし、「いやです」と答えたり、「はい、はい、承知しました」と答えておいて、実際は行かなかったり、これは、まさに私たち自身の神に対する姿だと思います。
たくさんの経験を積んだり、知識を持ったり、ある程度の地位や力を持ったりしますと、受け答えや言い逃れがうまくなり、「はい、はい、承知しました」と言ってしまいます。そして、実際は、最終的に、自分の思い、自分の望み通りにだけして、父の望み通りには何もしようとしません。慣れっこになるということは、私たちの感覚を麻痺させます。神の望んでいることではなく、自分の思いを行うために、理由をつけたり、人のせいにしたりして、自分を正当化する術が身についてしまいます。
旧約聖書の創世記の最初の物語を思い出していただきたいと思います。
アダムとエバは、エデンの園に置かれ、園のどの木からでも取って食べてもよい、しかし、園の中央の「善悪を知る木」からは取って食べてはいけませんと、命じられました。これはアダムとエバに対する神の命令であり、神のみ心でした。しかし、まず、エバが蛇の誘惑に負けて、取って食べてはならない木の実を食べてしまい、そして、アダムもエバにこの食べてはならに木の実を渡されて、食べてしまいました。
その結果、神が歩いて来られる音が聞こえた時、アダムとエバは、神の顔を避け、園の木の間に隠れました。神は、アダムに「どこにいるのか」と問います。神は問い続けます。「あなたの足音が聞こえたので、怖くなって隠れました」「なぜ隠れたのか、取って食べてはならないと命じた木の実を取って食べたのか」「私が悪いのではないのです。エバがまず食べたからです」「エバ、何ということをしたのか」「蛇が私をだまして食べろと言いました」。その結果、アダムとエバは、エデンの園から追い出されてしまいました。
この物語は、何千年も前に語り継がれ、読み継がれた神話、伝説ですが、この話の中に、人間の本質が鋭く描かれています。
まず、神の御心があります。命令があります。しかし、人は誘惑にあって、この神の命令に背いてしまいます。ところがその結果、神の顔がまっすぐに見られなくなります。神から身を隠します。
神は尋ねます。「どこにいるのか」と。逃げても隠れても、神は尋ね続け、返事を求め続けます。「あなたは何をしているのか」「あなたはどんな生き方をしているのか」「あなたはそれで良いのか」と。人はこれに応答しなければなりません。答えていかねばなりません。
しかし、人は自分の非を認めたくありません。わたしが悪いのではないのです。エバが悪いのです。蛇が悪いのですと、最後まで責任の転嫁をして罪を認めようとしません。
人間とはこんなものだと、古代の人は人間の本性を見抜き、このように物語の中に、表現しました。
私たち自身の中にアダムがあり、エバがあります。アダムとエバの中に私たちの姿があります。神に背いてしまっていることを認めたくないのです。聖書は、これこそ人間の罪の根源だと言います。このことが神と人間の間に断絶をつくってしまった。越えることの出来ない溝、断絶をつくってしまいました。この世のすべての不幸の根源は、このように神の言いつけに背いたからだ、背き続けているからだと教えています。
それでは私たちはどうすればいいのでしょうか。
その断絶は、私たちの側から越えることも、修復することもできません。
それは、神の側から与えられました。神はそのひとり子をこの世にお遣わしになり、その命によって、私たちに回復の機会を与えて下さいました。
私たちにできることは、そして唯一の道は、この神のひとり子、イエス・キリストを受け入れることであり、この方に従うことです。神の憐れみを私たちはただ神の恵みとして、感謝し受けることなのです。私たちにできる「父の望み通り」「神の期待に沿える」方法なのです。
闇雲に、「主よ、主よ」とさえ言い続けていれば、断絶が解かれるわけではありません。溝が埋められるものではありません。
マタイ7:21〜23「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と言われます。祭司長や長老たち、律法学者たちは、「主よ、主よ」という人たちでした。『主よ、主よ、わたしたちはあなたの御名によって預言しました。あなたの御名によって悪霊を追い出しました。あなたの御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言っても、主なる神は言われます。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』と。
天の父のみ心を行う者、すなわち、神さまの望み通りに歩む者、それは、神のひとり子、イエス・キリストを受け入れ、この方に従い、この方にすべてをゆだねる者だということです。
私たちは、自分の弱さ、自分の醜さ、いたらない所を嫌というほど知っています。とうてい神さまの望み通りには生きられません。そういう意味では、「いいえ」と言い続けている毎日です。しかし、思い直して、考え直して、すなわち悔い改めることによって、神の望んでおられるところに近づくことができます。祈りつつ歩みましょう。
(2005年9月25日 聖霊降臨後第19主日(A-21)説教)