捨てた石が隅の親石となった

2005年10月08日
マタイ21:33〜43 1 ぶどう園の主人と農夫のたとえ  ぶどう園のたとえが3回の主日に渡って続きます。  ぶどう園の所有者であるご主人からぶどう園を借りて収穫を得ている農夫が、収穫の時期になって、収穫したものを支払うようにと言われ、これを拒否したというたとえが語られています。  イエスさまの時代には、そのような具体的な事件があったのではないでしょうか。  ぶどう園の所有者であるぶどう園の主人が、ぶどう園に必要なすべての施設や設備を整えて、これを農民に貸し、旅に出かけて行きました。  収穫の時が来たので、収穫を受け取るために、農夫たちのところへ僕たちを送りました。しかし、農夫たちはこの僕たちを捕まえて、殺してしまいました。  さらにぶどう園の主人は、ほかの僕たちを前よりも大勢送りましたが、農夫たちは同じ目に遭わせて殺してしまいました。  そこで最後に、この主人は『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、自分の息子を送りました。ところが、この農夫たちは、その息子を見て言いました。『これは跡取り息子だ。ちょうどいい、殺してしまって、彼の相続財産をわれわれのものにしてしまおう』と言って、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまいました。 2 神に反逆するイスラエル  人は、神からお借りしたものを用いて、収穫を得ています。しかし、ある時が来ると、その収穫の精算を求められる時が来ます。ところが神からお借りして、神のために収穫をあげなければならないものを、その収穫したもの全部を自分のものにしてしまおうとしました。自分のことしか考えない、自分を正当化することしか考えない人間の姿が、農夫たちを通して語られています。  このたとえは、神は、イスラエル民族に預言者たちを次々と遣わしたというイスラエル民族の歴史を思い出させます。神は、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ等、次々と預言者をイスラエルおよびユダの民に送りました。神の御心を知らせようとしました。預言者たちは、罪の悔い改めを告げ、神のもとに帰ることを、神の命令に従うことを求めました。  しかし、イスラエルの指導者たちは、逆に預言者たちを憎み、彼らに迫害を加え、彼らを殺してしまいました。イスラエルの指導者たちは、明らかに真っ向から神に逆らいました。神に反逆したのです。このように農夫たちの反逆は、当時のイスラエルの指導者たちのどうにもしようのない罪が表わしています。  ぶどう園の主人は、農夫たちの反逆に対して、この事態を収拾するために、主人の代理者として、父に代わって全権をもつ息子を送りました。 「息子ならば自分の代理人として敬ってくれるだろう」と考えました。  ところが、農夫たちは、その息子を見て相談しました。「これは跡取り息子だ。さあ、殺して、彼の相続する財産を我々のものにしよう」と言って、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまいました。  預言者以上の使命をもって、神から派遣された者として、神のひとり子イエス・キリストが、神に対するイスラエルの指導者の反逆、反抗と立ち向かうために来たのだということが明らかにされます。そして、イエス・キリストの死と、神の裁きが迫っていることがこのたとえの中に預言されています。  農夫たちの反逆に対して、忍耐し続けるぶどう園の主人の姿は、神の忍耐を示しています。次々と預言者を送り、これに対する農夫たちの残虐な仕打ちにかかわらず、最後には最も愛するご自分の息子を派遣されたということは、人間の理解をはるかに超えた「神の恵み」を感じさせます。  それまでは預言者たちを通して神のことが教えられてきました。それは神と人々の間接的な関わりでした。しかし、その息子、神のひとり子が派遣されることによって、神と人との関係が直接的になりました。  神と人とが直面するのです。「神からのものを神にかえすのか」それとも「神から差し出された神の御手を断ち切るのか」が、どちらをとるかが問われるのです。 3 農夫たちをどうするだろうか  イエスさまの話は続きます。このたとえを聞いていた人たちというのは、エルサレム神殿に仕える祭司長や民の長老たちでした。イエスさまは彼らに尋ねました。「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」と。  すると彼らは、「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」と答えました。  第1に、このようなぶどう園を借りていて収穫を返さない、そして僕たちを殺し、息子さえ殺してしまった農夫たちは悪人だ、彼らには罰を与えよ。滅ぼしてしまえと言いました。  そして、第2に、ぶどう園は、季節ごとにちゃんと収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいないと言いました。  このように答えたのは、イスラエルの指導者たちでした。たとえの中では、ものごとの善悪も大小もわかります。しかし、結果的には、「十字架につけよ」と叫んで、イエスさまに苦しみを与え、イエスさまを殺したのは 彼らでした。  神は、イスラエル民族を選び、彼らの繁栄を約束し、彼らを通して、神の御心を表されようとしました。長い歴史の中で、そのために彼らに教え、試練を与え、訓練してこられました。しかし、この民族、とくにその指導者たちのしてきたことは、神への反抗、反逆の連続でした。神の忍耐、神の恵みの奥深さには気づこうともしないそのような出来事を繰り返してきました。 4 ふさわしい実を結ぶ民に与える  「ちゃんと収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない 」という「ほかの農夫たち」とは誰なのかは語られていません。  イスラエルの民は神によって選ばれた民でした。イスラエルには、強烈な選民意識、エリート意識がありました。しかし、その中身は神のみ心とはほど遠いものでした。「ほかの農夫たち」とは、イスラエル以外の人々、すなわち「異邦人」であることが暗示されます。「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」とはっきりと言われます。  エリート意識が強いイスラエルからすると、他民族、すなわち異邦人は、罪人であり、救われるはずがない、滅びて当然とされる人たちでした。  「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」  詩編の118編22節から引用して語られました。  木が少ないこの地方では、その地域に採掘できる石で神殿や宮殿を造り、一般の住宅も石で造られました。  「家を建てる者」とは、大工ではなく、石工といいます。切り出された石の中から、石を選びます。石工は、大きさ、形、座りのいい石を選んで家を建てていきます。それ以外の石、選ばれなかった石は、脇に捨てられていきます。工事現場には、そのような石がごろごろと転がっています。  ところが、何かの機会に、別の家を建てることになり、この一度捨てられ、脇に置き去りにされたていた石が用いられることになりました。それどころか「隅の親石」となりました。それは、その建物のコーナーに置かれ、建物の基準となる、最も大事な所に置かれる石です。はじめの石工は、この石は使い物にならないと判断しました。価値がない、値打ちがないと判断して、これを捨てました。それに最も大事な役割が与えられて用いられたのです。「これは主の御業」神がなさること。ほんとうに神は不思議なことをなさる。人間の知恵では計ることのできない驚くべきことが起こったのだと神をたたえます。 5 隅の親石となった―新しいイスラエル  まさに捨てられたように脇に置かれていた石が、新しい役割、使命を持って選ばれ、役立てられようとしているのです。  古いイスラエルに代わって「新しいイスラエル」が立てられました。 「これは主の御業」というこの御業は、イスラエルの12部族に代わって、選ばれた12人の弟子たちによって表されました。12人の弟子たちから教会が始まりました。「新しいイスラエル」それは教会です。教会が新しく「隅のかしら石」とされたのです。  さて、現在の教会は、また、現代という時代にある教会は、新しく選ばれた「隅のかしら石」として、使命を果たしているでしょうか。   神からお借りしているぶどう園を使って、収穫を上げ、その収穫をお返ししているでしょうか。神に返すべき収穫を全部自分のものにして、一人じめしていないでしょうか。  私たちにとって、返すべき収穫とは何でしょうか。  このたとえの中の農夫たちのように、神からのメッセージを、皆殺しにしてしまい、もう一度その息子をも殺してしまおうとしていないでしょうか。  私たち自身、神に反逆する者になっていないでしょうか。反抗し、反逆し続けるか、神の恵みによって差し出される御手にすがるか、どちらかが迫られています。ほどほどとか、中間の答えはありません。  私たちの日常の生活の中で、教会生活のなかで、礼拝をささげる者として、答えを出さなければなりません。  (2005年10月2日 聖霊降臨後第20主日(A-22)説教)