神のものは神に返しなさい

2005年10月16日
マタイ22:15〜22 1 ユダヤ人たちのわな  主イエスの時代には、ユダヤ人の指導者たちには、いくつかの派閥がありました。  いちばんよく出てくるのは「ファリサイ派」という一派で、律法学者を中心に律法主義者の集団でした。文章に書かれた掟、文章になっていないものでも、昔の言い伝えなども律法とし、これを守ることに命をかけている信徒集団でした。  その次によく出てくるのが、「サドカイ派」といわれる一派で、神殿に仕える祭司たちの集団で、モーセ五書だけを律法とし、復活を信じないという考えを持っていました。  また、「ヘロデ党」という一派がありました。ローマ皇帝にへつらうユダヤの王ヘロデ王朝を支え、ローマ皇帝やローマ軍の支配下にあることえおよしとし、服従する態度を取っていました。  そして、「熱心党」と言われる一派がありました。ゼロテ党とも言われ、ユダヤ人がローマ帝国の支配のもとにあることをよしとせず、強い屈辱感を持ち、何かにつけてローマに反抗的な最も過激な国粋主義者のグループでした。  このように、主イエスの時代には、宗教的または政治的に対立し、いがみ合っていました。  ところが、このようにいがみ合っているそれぞれも、ある目的や利害が共通になると、日頃のいがみ合いには目をつぶり、手を携えて協力するという利己主義がその背景に漂っていました。  まず、ファリサイ派の人々は出かけて行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談していました。そして、自分たちが直接尋ねるのではなく、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに行かせて尋ねさせました。  日頃、決して仲のよくないファリサイ派とヘロデ党が一緒になってイエスさまの所に来て言いました。 「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」  この言葉は、本心から出たものでないことがわかります。見え透いたお世辞というか、イエスを何とかして陥れようとする策略があって、丁寧な言葉を使い、敬意に満ちたいかにも尊敬しているような姿勢見せて近づいて来ます。イエスがどうしても答えずにはいらえないような持ちかけ方をしてきたのでした。  そして尋ねました。  「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」  本来、ユダヤ人にとって税金というものはなく、神にささげるべきものでした。ところが、当時のユダヤはローマの属領であって、ローマの支配のもとにありましたので、税金をローマ皇帝に納めなければなりませんでした。現に人頭税という税金が一人一人に課せられていました。14歳から65歳までの男性、12歳から65歳までの女性に、毎年1デナリオン(労働者1日分の給料)が課せられていたといわれます。一方、ユダヤ人には神殿税と呼ばれる律法があって(出エジプト30:11〜16)神にささげるべき献納物が課せられていました。このような二重の課税は常に問題にされていました。異教の神と崇められている皇帝に納めることはユダヤ人にとっては大変な屈辱でした。 「皇帝に税金を納めてよいのでしょうか」という問いは、もし「納めてもよい」と答えると、熱心党とそれに同調している民衆は黙っていません。異教の王である皇帝は、ローマでは神と呼び、偶像崇拝の対象になっている、これに税を納めるなどということは、律法に反するとんでもないことだといいます。  「皇帝に税金を納めなくてもよいとか、納めてはならない」と言えば、ローマに税を納めているファリサイ派やヘロデ党は、イエスをローマに反抗している扇動者として、ローマの役人に訴えるでしょう。  どちらに答えても必ず彼らの思う壺にはめられる意地の悪い質問でした。 2 イエスの答え  しかし、主イエスは彼らの心の奥に潜んでいる偽善を鋭く見抜きました。  イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」  彼らは持っていたデナリオン銀貨を差し出しました。  すると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。  彼らは、「皇帝のものです」と答えました。  すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」  主イエスの時代には、ユダヤでは、いろいろな国の貨幣が出回っていました。ギリシャの銀貨、ローマの銀貨や銅貨、ペルシャの銀貨などが入り乱れて使われていました。  ここで差し出されたデナリオンは、ローマの銀貨で、野外労働者の1日分に匹敵する金額でした。  このデナリオン銀貨の表には、皇帝ティベリウスの像が刻まれていて、「崇高なる皇帝ティベリウス、神聖なるアウグストゥスの子」銘が記されていました。さらにその裏には神の座に座るティベリウスの母の像と「大祭司」の銘がありました。この時、主イエスに渡されたデナリオン銀貨には明らかに皇帝の肖像が描かれていました。彼らは「皇帝のものです」と答えました。そこで、主イエスは「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。 3 皇帝が造ったものと神が造ったもの  「皇帝の肖像が刻印してあるものならば、皇帝が造ったもの。皇帝が命令して造らせたもの。当然、それは皇帝のものではないか。皇帝に返しなさい。それと同じように、神が造ったもの、神が命令して造ったものは、神のものではないか。それなら当然神に返しなさい」という意味でありました。  神は、天地を創造されたました。この地上のものはすべて神によって造られたものです。すべてが神のものです。その中には、皇帝も皇帝の肖像が入ったデナリオン銀貨も全部入っています。皇帝さえもそれは神によって造られたものであり、神によって命が与えられ、また、その命が取り去られるべきものです。いわば神の刻印が押されている被造物の一つに過ぎないのです。  主イエスは、デナリオン銀貨を皇帝に「納めなさい」とは言いませんでした。皇帝のものは皇帝に「返しなさい」と言われました。  主イエスを陥れようとして万全の策略を練って近づき、どちらにも答えられないような質問をしましたが、その策略は見破られ、思わぬ答えが返ってきました。 「彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」と記されています。 4 真の創造者と被造物の関係  皇帝に税金を納めるべきか、神に献金を献げるべきかという問いは、単に政治と宗教は別だとか、政教分離などと言っているのではありません。  それは、神と皇帝を同じ次元において、同じレベルで比較し、どちらが大事なのかと言っていることに問題があると指摘されているのです。  60数年前、日本中に戦時色が強くなり、すべてがお国のためとか天皇陛下のためと言った時がありました。それ以外の価値観はすべて否定され、お国のため、天皇のために命を捨てる、財産が奪われても当然とされていました。国家統制法とか、宗教団体法とかいう法律ができ、さまざまな宗教団体が迫害をうけました。キリスト教もその例外ではなく、西洋の宗教、敵国の宗教ということで、牧師や司祭が憲兵や特高に尾行され、捕らえられ、監獄に入れられ、拷問を受けたり、獄死した人たちもいました。そこで問われたことは、「お前たちが信じている神と天皇陛下とどちらが偉いのか」とか、「天皇とキリストとどちらを信じるのか」と問いつめられたと言われます。現人神と言われた天皇よりも神を信じるとか、キリストを信じると言うと、非国民とか不敬罪とか言われて投獄されました。  その問いは、次元が違うとか、キリストと天皇を一緒にしないでくれと言っても、ほんとうの神をしらない、キリストを知らない、信じていない人にとっては、まったく通用しない言葉でした。  さて、私たちはどうでしょうか。私たちは神を信じています。キリスト・イエスを信じています。または信じようとしています。  しかし、実際の生活の中で、神を、キリストを、私たちの次元に引きずり下ろしてしまって、自分と同じレベルで見てしまっていることはないでしょうか。  神を崇め、神を賛美し、神に感謝することの大切さを、私たちの生活の小さな出来事のために、忘れてしまったり、拒否してしまったりしていないでしょうか。神さまのことと、自分の欲望や野心とを同じ天秤にかけて上げたり下げたりしてしまっているようなことはないでしょうか。  すべてのものは神に帰する。私たち自分自身も神から出て神に返されるべきものなのです。「神のものは神に返しなさい」といわれるこの言葉を、じっくりと受取り、考えてみたいと思います。 (2005年10月16日 聖霊降臨後第22主日(A-24)説教)