神を愛し、隣人を愛しなさい。
2005年11月04日
マタイ22:34〜40
主イエスの時代、当時のユダヤ教の指導者たちは、たびたび主イエスに論争をしかけ、何とかして主イエスを負かそうと試みました。サドカイ派の人々が主イエスと論争して、負けたと聞いて、ファリサイ派の人々が、さらに主イエスに近づいてきました。
ファリサイ派というのは、子どもの頃から律法を教え込まれ、ラビの教えや言い伝えにいたるまで膨大な数の律法、掟を暗記し、そして、これを守っている人たちでした。そればかりか、律法を守っている自分たちは正しい者であると自負している人々の集団でした。その中には、律法学者と言われるさらに律法にはくわしい律法の専門家がいました。
その律法の専門家の一人が、イエスに近づき、質問しました。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
その質問は、ほんとうにわからなくて質問をしたのではありません。イエスを試そうとして尋ねたのです。あわよくば言葉尻をとらえて人々の前で恥をかかせてやろう、失脚させてやろうという意図がありました。
これに対して、主イエスはお答えになりました。
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と。
これは、その当時のユダヤ人が誰でも知っている律法の言葉で、いたって常識的な答えでした。
最初の『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』という言葉は、旧約聖書申命記6:5からの引用です。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」
全身全霊を尽くして、「あなたの神、主を愛しなさい」。この言葉を繰り返し子供たちに教え、これを書いて身につけ、どこにでも書いておいて、一日中忘れないようにしなさいと言われます。
さらに、第二の律法も、第一の律法と同じように大切でだと言われ、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」という、同じく旧約聖書レビ記19:18を引用されました。これも、誰でも知っている掟の中の掟でした。主イエスは、決して新しいことを言われたのでも、奇抜な答えをなさったのでもありませんでした。
律法の専門家でなくても誰でも知っている律法でした。しかし、彼らは知りませんでした。知っていて知らない、いや、知りたくなかったのかも知れません。
それは、彼らが陥っている律法主義と、「愛せよ」という掟とは、両極とも言い得る相反する考え方であったということができます。
「愛する」ということは、具体的に言えば、相手を受け容れ、理解することであり、誠実であること、思いやること、やさしいこと、もてなすこと、忍耐すること、自分の利益ばかりを求めないこと、裁かないこと、赦すこと、傲慢にならない等々です。
律法とは、そこには神の意志が示されていて、神のみ心を知ることであり、本来律法を守るということは、神のみ心に従って生きるということであるはずです。しかし、律法主義となると、律法は、単に人を縛るルールということになり、人を裁く基準であり、人には厳しく、自分を正当化するための道具として利用し、これを振り回している限り、人を赦したり、受け容れたり、理解しようとすることとはまったく縁遠いものになってしまいます。
主イエスは、律法を、裁く心をもって守るのではなく、まず主なる神への愛、さらに自分を愛するように隣人を愛する愛をもって、これを守りなさいと言われます。「すべての律法と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言われるのです。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」、「隣人を自分のように愛しなさい。」というこの律法は、主イエスの時代のずっと昔からよく知られている律法です。しかし、この律法は、主イエスによって、今まで聞いたことがないような意味が与えられました。これこそ、主イエスの教えの中心であり、別の言い方をすれば、主イエスご自身の生きざま、死にざまによって、「ほんとうの愛の在り方」を示されたのです。
キリスト教は、「愛の宗教」だと言われます。仏教でも慈悲とか慈愛とかいう言葉があり、愛について語られますし、その他の宗教にも愛は説かれるでしょうが、しかし、聖書がいう愛とは大きな違いがあります。
聖書全体、とくに新約聖書には「愛の教え」が満ちています。
皆さんもよく聞く言葉でしょうが、主イエスの代表的な愛の教えをもう一度思い出していただきたいと思います。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のため に祈りなさい。‥‥‥ 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」(マタイ6:27〜36)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12:24〜25)
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:12) などなど。
主イエスが、私たちに求められる「愛」は、「敵を愛し、自分を迫害する者のため に祈れ」という愛です。「自分の命を愛する者はそれを失う、この世で自分の命を憎む人はそれを保って永遠の命に至る」という愛し方です。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という愛であり、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われる愛なのです。
徹底的に、自分を犠牲にし、人のために自分の命を捨て、敵として自分に向かってくる相手のために祈れという愛を要求されます。
正直に言って、そのように人を愛することなど、私にはできませんと、
早々に白旗を揚げて、主イエスの前に降参せずにはいられません。
しかし、もし、それが、単に、教訓や道徳、命令や規則ぐらいであれば、投げ出すことも、逃げ出すこともできるかもしれません。
しかし、私たちにはそれが出来ないのです。それは、主ご自身が、あの十字架の上で、「人のために命を捨てること」、「迫害をする者のために祈ること」を、ご自分でやってしまわれたのです。その上で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と言われるのです。
ご自身の上にふりかかる壮絶な十字架上の死を通して、「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」ということを示されたのです。その上で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と要求されます。
口先の言葉だけではなく、ほんとうに自分の身をもって示し、その上で、だから「あなたがたも、そのようにしなさい」と言われるのです。
もう一ヶ所、聖書の言葉を引用します。ヨハネ第一の手紙4:10〜11です。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
まず、神が私たちを愛してくださり、その独り子を与えるほどに愛してくださったのだから、神がこのようにわたしたちを愛してくださったのだから、あなたがたも互いに愛し合うべきですというのが、神が示させる「愛の論理」です。
私たちによいところがあって、善いことをして、だから、神が私たちを愛して下さっているのではないのです。弱くて、醜くって、何もできない私たちに、ただただ「恵み」をもって愛してくださっているのです。
もし、私たちが、「愛せませーん」と言って収まっているとすれば、神から赦され、憐れみを受け、恵みが与えられている、自分の姿がわかっていないということになります。
「主である神を愛しなさい」「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というこの律法は、十字架上で主イエスが苦しみと死をもって示された神の恵みを、私たちが、まっすぐに受け取ったとき、はじめてほんとうの愛を理解し、一歩前に足が出るのではないでしょうか。
(2005年9月23日 聖霊降臨後第23主日(A-25)説教)