目を覚ましていなさい。

2005年11月26日
マルコ13:33〜37 1 キリストの誕生を迎える  教会の暦では、今日の主日から「降臨節」に入ります。降臨後第1主日から降臨節第4主日までの4週、12月25日の降誕日を迎えるまでの期間を「降臨節」「アドヴェント」と言います。  このシーズンは、キリストの降誕を待ち望む、キリストがこの世に来てくださることを一生懸命に待つ、クリスマスを迎える準備のシーズンです。 降臨節第1主日の福音書、マルコ13章32節から37節は、次の言葉で始まります。  「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」  主キリストが再び来られる時、終末の時は、誰にもわかりません。だから「目を覚ましていなさい」と勧めます。初代教会では、このように「終わりの時」は近いという終末信仰に立ち、それは、キリストが再び来られる時であり、その時には「神の支配」すなわち「神の国」が全うされるという希望を持っていました。その日が近いのだから、「だから目を覚ましていなさい」と言います。この33節から37節の間に、「目を覚ましていなさい」という言葉が3回も繰り返されています。  そして、門番が、ご主人の帰りを寝ないで待っているように、突然帰ってくるかも知れないご主人を待っているように、目を覚まして待っていなさいと命じられます。  この門番のたとえは、緊張してキリストが来られる待ちなさい。そのために「心の目」をしっかりと開いて、心の準備をしてこの時を迎えなさいと勧めておられるのです。  ここで、クリスマス物語をひもとくのは、少し早いのですが、クリスマスの物語の中に登場する人物を通して「目を覚ましていなさい」という勧告について考えてみたいと思います。 2 東方の博士たちと羊飼いたち  聖書には、マタイ福音書とルカ福音書に、主イエスの誕生の物語が記されています。  マタイ福音書には、東方の博士たちの物語が記されています。  イエスが生まれた時、東方の占星術の学者たちが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言って、ヘロデ王のところに、はるばる遠い異国から訪ねてきました。不安を感じたヘロデ王がユダヤの祭司長たちや律法学者たちを集めて調べさせ、それはベツレヘムだと答えました。さらに星に導かれて占星術の学者たちは幼子のいる所にたどり着き、ひれ伏して幼子を拝み、贈り物を献げて自分の国に帰っていきました(マタイ2:1-12)。  また、ルカによる福音書には、羊飼いの物語が記されています。  荒れ野で野宿をしながら羊の番をしている羊飼いの所に天使が現れて、「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。その方こそ主メシヤである」と告げました。羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って、出かけて行き、馬小屋の飼い葉桶に寝かされていいる乳飲み子を見つけ、見聞きしたことことがすべて天使が話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていきました(ルカ2:8〜20)。  このクリスマス物語によりますと、救い主がお生まれになったというニュースを告げ知らされたのは、母マリヤと許嫁のヨセフ以外に、東方の占星術の学者たちとユダヤ人の羊飼いたちだけでした。  主イエスがお生まれになったベツレヘム、その近くのエルサレムには、ヘロデ王という王がいました。神殿には祭司長や祭司たちがいました。さらに、多くのファリサイ派や律法学者たちもいました。この人たちは、日頃、自分たちこそ、由緒正しいユダヤ人で、律法に通じ、これをよく守り、自分たちは正しいのだから神に救われて当然だと自負していました。  これに対して、占星術の学者たちというのは、ペルシャのゾロアスター教の祭司で、天文学、占星術によって、人の運命や世の動きを占っていた人たちであったと言われますから、ユダヤ人から見ると、異邦人であり異教徒でありました。  また、羊飼いたちというのは、当時、羊の番をし、羊の世話をするのは、羊の所有者自身やその家族である場合もありましたが、所有者から雇われている人たちも多くいました。彼らの社会的な身分は低く、律法の教育を受ける機会も与えられず、教養もなく、羊を連れて移動するために荒れ野で生活することが多い人たちでした。 2 なぜ彼らの所にだけニュースが届いたのか  ユダヤ人の王、救い主が生まれるというニュースは、なぜこのような人たちのところに報らされたでしょうか。  権勢を誇るヘロデ王や祭司長やファリサイ派の人たちや、律法の専門家たちのところにではなく、なぜ、異教徒であり異邦人であう占星術の学者たちや野宿している羊飼いに報らされたのでしょうか。  それは、まず第一に、救い主は、異邦人や罪人のところにあらわされたということに意味があります。  パウロは、コリントの教会の人々に次のように手紙を書いています。 「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(�汽灰螢鵐硲�:27、28)  神は、知恵ある者、力ある者、身分が高いことを誇る者を退け、無学な者、無力な者、身分の卑しい者、見下げられている者を選ばれます。救い主が来られたということを報らされる者となる条件は、自分の知恵や力や地位を誇らないこと、見下げる者よりも見下げられるよな者となること、ほんとうに神の前に、人の前に謙虚、謙遜であることが条件であるということを表しています。  第二に、では、この異邦人、異教徒である東方の博士、占星術の学者たちと、身分の低い荒れ野で野宿していた羊飼いたちとの共通点は何でしょうか。それは、両方とも、「目を覚ましている人たち」でした。  占星術の学者たちは、夜が更けて、寝静まっている時間に起き出て、星空に目をこらしていました。一つの星の、ちょっとした動きにも用心深く目をこらし、夜空を眺めている人たちでした。一方、羊飼いたちも、夜通し目をこらして、羊の番をしています。羊が迷い出ることがないように、また狼や泥棒が羊を襲うことがないように警戒し、一時の油断もできません。寒さの中をたき火を囲みながら目をこらしていました。  このキリスト誕生の物語には、直接、「目を覚ましていなさい」という言葉は使われていませんが、この登場人物を通して、「目を覚ましていなさい」というキリストを迎える者の条件が象徴的に表されています。  そして、彼らこそ、いちばん先に救い主にお会いし、乳飲み子キリストに礼拝をささげることができたのです。 3 キリストを迎えるために  さて、私たちは、神のみ子が人間の肉体を取って、この世に来られたという、救い主が来られることを記念する日を迎えようとしています。そして、その準備の時であるアドヴェントを迎えます。クリスマスは、毎年巡ってきますが、この時を迎えるにあたって「目を覚ましている」ということはどういうことでしょうか。私たちが心の目を開いて、心が目覚めているということはどういうことでしょうか。  それは、第一に、東方の占星術の学者たちがそうであったように、野宿して羊の番をしている羊飼いたちがそうであったように、目をこらして見つめていたということ、心がそのことに集中していたということです。多くの人たちが眠り込んでいる時に、目を開いているということは、容易なことではありません。心の目を開いているということは、そのことに問題意識を持ち、日頃からそのことに深い関心を持っていることだと思います。  神と「私」との関係をつねに意識し、主イエスとのほんとうの出会いを、「マラナ・タ(主よ、来てください)」(�汽灰螢鵐�16:22) と願い求め、熱心に待ち望むことです。  第二に、東方の占星術の学者たちは、「東方でその方の星を見たとき」、また、野宿して羊の番をしている羊飼いたちは、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言う天使の声を聞いたとき、彼らはすぐにその出来事を受け入れました。ただその現象を現象としてだけ見るのではなく、心に深く受け入れることが必要です。 占星術の学者たちから、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」という報らせを聞いたヘロデ王やエルサレムの人々は不安や恐れを感じました。自分の地位や身分や名誉、財産があるために、また知識や経験があるために、まことの王を受け入れることができませんでした。私たちを取り巻くクリスマスの賑やかさや華やかさは、私たちの心にキリストが生まれるほんとうの意味を忘れさせ、私たちは浮ついた気持ちのままでこの時を過ごさせてしまいます。主を心の深いところに受け入れるためには、一人静かに主イエスを想う時を持つこと、そして何よりも謙虚であることが求められます。  第三に、東方の占星術の学者たちは、星を見たとき、すぐに立ち上がって「その方」を拝みに行きました。黄金、乳香、没薬をたずさえ、遠路はるばるベツレヘムに来て、贈り物をささげ、ひれ伏して幼子を拝みました。また、野宿して羊の番をしている羊飼いたちは、天使が去ったとき、「急いで行ってマリアとヨセフ、そして飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当て、礼拝し、神をあがめ、賛美しながら」帰っていきました。このように、キリスト誕生の報らせを聞き、これを受け入れた人は、すぐに立ち上がって主を礼拝しようとします。いや、主を礼拝せずにはいられない気持ちに駆られます。同じ思いを持った人々が共に集い、神をあがめ、神を賛美するとき、その時こそ、ほんとうに主イエスに出会うことができます。  「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。   目を覚ましていなさい。」 (2005年11月27日 降臨節第1主日(B年)説教 於・金沢聖ヨハネ教会)