主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。

2005年12月07日
マルコ1:1〜8  今日は、降臨節第2主日です。  聖餐式において、毎主日、一定の聖書の個所が読まれますが、私たちの教会ではこれを「聖餐式聖書日課」と言って、教会の暦に従って読む個所が定められています。この聖餐式日課は、聖公会、ローマ・カトリック、ルーテル教会では共通となっています。  聖餐式の中では、旧約聖書、使徒書、福音書と、3個所の聖書を読むことになっています。そして教会暦のテーマにそって、聖書の個所が選ばれれていますが、とくに、福音書に関係して旧約聖書の個所が選ばれていたり、使徒書が選ばれていたりしています。  さて、今日の福音書ですが、マルコによる福音書の冒頭、1章1節から8節までを、今読みました。  主イエスが、30歳で人々の前に姿を現された時、洗礼者ヨハネと呼ばれる預言者が、その少し前に現れて、主イエスの道備えをする人となり、人々に主イエスを紹介したということが記されています。  そして、この洗礼者ヨハネという人の出現は、何にもないところから突然現れたのではなくて、旧約聖書に預言されていることが実現したのだと述べています。それは、イザヤ書の40章3節の預言者イザヤの預言が成就したのだ言います。  「呼びかける声がある。   主のために、荒れ野に道を備え   わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。 険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」  今日の旧約聖書では、この所が読まれています。  ごつごつとした岩だらけの、石だらけの荒れ地に平らな道を備えよ。そして、今、その道を備える人が遣わされて、人々の前に現れた。この人こそ、洗礼者ヨハネであるというのです。それは、神の御子が現れる、最もだいじな方が現れる前触れとして、その方の歩く先に立って準備をする者であることを表しています。  新約聖書にたびたび強調されていることは、無色透明、白紙の状態の所に、主イエスが突然現れたのではなく、旧約聖書の中で預言された出来事、約束された方が、その預言や約束を実現するものとして現れたのだということです。言いかえれば、旧約聖書の知識や経験がなければ、新約聖書に記されている出来事、主イエスの教えや行動、その方自体の存在の意味がわからないということです。  このイザヤ書40章は、第二イザヤと呼ばれる部分で、紀元前530年ごろに書かれたと言われていますから、洗礼者ヨハネが現れる前、560年もさかのぼった時代に書かれています。  主イエスの時代のユダヤの人たちは、イザヤ書のこの個所から、洗礼者ヨハネの役割を知り、さらにその後に来られると、ヨハネが指さした方を理解しようとしたのだと思います。  ずいぶん昔のことですが、私は、1981年の5月に約1ヶ月、アジア・キリスト教協議会の招きを受けて、インドに行きました。主に、インドの真ん中にあるバンガローという町で、会議に出席したり研修を受けたりしました。その研修プログラムの一つとして、インドの地方にある教会に行き、そこで信徒の人たちと交わりを持ったり、礼拝を共にするということがありました。  私は、インドのいちばん南、ケララ州のコチンという所に行くことになり、飛行機と、列車と、さらに迎えに来てくれた自動車に揺られてまる1日かかって、目的地に着きました。そこには、南インド教会、マルトマ教会というキリスト教の教派があり、さらに田舎の教会へ連れて行かれました。地図で見ると赤道のすぐ上にあたる地域で、熱帯の森林の中にある教会でした。教会と言っても、柱と屋根があるだけの建物で、粗末なベンチには男女が左右に分かれて座り、通路も窓の外もいっぱい人が群がり、前の方には子どもたちが床に直に座っています。  聖餐式が行われ、土地の言葉で唱えたり、歌ったりしていますが、伴奏は太鼓だけ、リズムのいい歌声を響かせます。しかし誰も祈祷書や聖歌集を持っていません。全部暗記していて、大きな声で歌います。体中で楽しんでいるような礼拝でした。  聖餐式が進んで、いよいよ日本からはるばるやってきた私が説教をすることになりました。礼拝前の打ち合わせでは、私が英語でお話をし、司式をしているその教会の司祭さんが、その土地の言葉に通訳してくれることになっていました。  「わたしは、日本から来ました。」 I came from Japan. ところが、私の隣りに立って通訳してくれているその司祭さんが、その後で10分ぐらいしゃべるのです。何を言っているのか内容は全然わかりません。やっと一区切りついたところで、私は次の言葉を語りました。  「わたしは、日本の大阪から、インドのカルカッタまで、ジェット機に乗って来ました。」  すると、また、その先生が、汗をかきながら、20分ぐらいしゃべるのです。  できるだけ易しく話そうと思って、準備していたのですが、なかなか前に進みません。しかし、そこに集まっている人たちは、大人も子どもも一生懸命聴いています。日本からはるばる来て、説教をしているのに、こちらは、単語を3つか4つしかしゃべっていないのに、通訳にかこつけて 10分も20分も自分でしゃべるのです。自分はいつでもしゃべれるだろうに、なんぼ何でもそれは失礼だろうと、途中から頭にきました。  ずいぶん時間がかかるので、準備した説教の半分も語れず、途中で説教をやめてしまいました。それでもその日の主日礼拝は3時間半ぐらい経っていたように思います。聖餐式がすんで、控え室に帰ってきました。  礼拝後のお祈りがすんで、早速、その司祭さんに、抗議をしました。 「わたしが3語か4語ぐらいしか話していないのに、あなたは通訳するのに10分もしゃべった。いったい何をしゃべっていたのだ」と尋ねました。  すると、その司祭さんは、  「『わたしは、日本から来ました』と言っても、ここにいる人たちは、日本という国はどこにあって、どんな国か知りません。だから、日本の国がどこにあって、どういう国なのかということを説明しなければならないのです。『ジェット機に乗って来た』と言っても、ここにいる人は、誰も、一度もジェット機というものを見たこともないし、どんなものかを説明しなければわかりません。だから、ジェット機の説明をしていたのです」  「日本とインドで何千キロ離れていると言っても、高度1万メートルで飛んできたと、そのまま通訳しても、その距離感がありません。わかりません。またその説明が必要になります。」と言いました。  文化や文明の違いだと言ってしまえばそれまでですが、私たちが常識だと思っていることが、コチンの人にはまったく理解出来ないことがあり、反対にインドのコチンの山奥に住んでいる人がよく知っていることで、私たちが知らないことがたくさんあるのだということがわかりました。  そのことがわからなくて、頭にきていた自分を恥ずかしく思いました。  このように、自分が生きてきた過去において経験したことや知ったこと、知識がなければ、それを学んでいなければ、わからないのです。そして受け容れられないのです。  キリスト教やキリスト教の神を否定する人と話をしていても、愛について話し合っていても、その人がキリスト教について正しく知り、キリスト教の神についてきちんと知った上で話をしていなければ、話は噛み合いません。愛について話し合っても、愛という言葉に共通点がなければ、いつまで経っても受け入れあうことはありません。  さて、神の御子をこの世にお迎えするということについて考えてみましょう。  まず、それは私たちの知識や経験をはるかに越えた出来事であるということです。何の知識も準備もない人のところに、主イエスが現れて、  「わたしだ。神の子だ。救い主だ」と言われても、とうてい私たちにはそのことが何のことだかわかりませんし、受け入れることが出来ません。  主イエスが、この世に来られるためには、イスラエル民族という、一つの小さな民族が選び出され、教えられ、訓練を受け、試みられることが必要でした。その間に、律法が与えられ、預言者やさまざまな指導者たちが与えられました。それでも神のみ心に背く民の頑なさが続きました。  神の御子が、私たちと同じ肉体をとって、この世にお生まれになる、そして、人々の前に姿を現されるためには、旧約聖書に描かれている長い時間が必要だったのです。長い時間を得て、知識と経験が与えられ、そして、時が満ちて、その時が与えられたのでした。  それでも、すべての人が、この方を受け入れられたのではなく、これを受け容れた人たちと受け容れられなかった人たちがいました。  洗礼者ヨハネは、このような旧約聖書の道備えの役割のすべてを代表し、そして最後の露払いの役割を果たすために現れました。  「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1:7、8)  と言って、主イエスを紹介しました。  さて、私たちも、3週間後に、主の御降誕を記念する日を迎えます。 そして、今、クリスマスを迎える最も大切な準備の時を過ごしているのです。  クリスマスを迎えるのに、クリスマス・ツリーを飾り、クリスマス・プレゼントを買い求め、ご馳走を準備します。しかし、そのことだけが、クリスマスの準備ではありません。  もし、心の中が、無色透明や白紙で、空っぽであれば、どうしてキリストを素直に受け容れることができるでしょうか。いや、反対に、世の煩いや野心や欲望で私たちの心が満たされているとすれば、そういうもので心が満杯にんっていれば、そこにどうして主イエスをお迎えすることが出来るでしょうか。  主イエスを迎えるために、長い長い旧約聖書に語られているような歴史が、準備期間が必要であったように、私たちにも、心から耳をすまし、目をこらし、神のみ言葉に聴く、ほんとうの準備の時が必要です。  主がお出でになります。さあ、主がお通りになる道を、私たちの心の中の道を整え、その道をまっすぐにしましょう。そして、「主よ、どうぞお出でください」と、その日を待ちましょう。 (2005年12月4日 降臨後第2主日(B年) 聖アグネス教会)