「いまだかつて、神を見た者はいない」
2005年12月25日
ヨハネ1:18
「いまだかつて、神を見た者はいない」(ヨハネ1:18)
神というものを見た人はいません。しかし、人類始まって以来、最も古い人間社会の営みの中に、信心とか民間信仰というものがありました。
世界中のどの民族においても信仰や宗教というものを持たない民族はなかったと言われます。
古代の人たちは、さまざまな自然現象の中に、また人間が生まれ、育ち、生きていくうえに、また病気になり、事故にあって死んでいく姿の中に、人間の力をはるかに越えた大きな大きな何か、目に見えない力を感じ、それによって支配されていることを知りました。
「いまだかつて、神を見た者はいない」
神というものを見た人はいません。しかし、そのような人間の目に見えない大きな力を「神」と名づけ、これを敬い恐れました。太陽や月や山や川に、また草や木、花や鳥や魚や動物たちの住む自然の中に、神の恵み、神の力が宿っていると感じ取りました。大雨が降り、大風が吹き、また日照りが続き、雷が鳴り響く時、それは神が怒っている、神の罰が下っていると恐れました。家族の誰かが、愛する者が、死を迎える時、悲しみや苦しみに中で、天に目を上げ、手を広げて、神にその原因や理由を求め、訴えました。
「いまだかつて、神を見た者はいない」
神というものを見た人はいません。そのような目に見えない大きな力すなわち神に訴え、生きる力や意味を求め続けている間に、神は、人と同じように意志を持ち、語りかけ、神は人に「どのように生きるか」を求める方であるということを知りました。神と人との関係を、人と人との関係のように、人格的な関係として受け取りました。さらにある人たちは目に見えない神の像を人間の手で造り、偶像をまつって神としこれを拝みました。またある人たちは神の怒りをなだめるために犠牲をささげたり、供え物を供えたりしました。
「いまだかつて、神を見た者はいない」
神というものを見た人はいません。人間は、神を見ることはできません。しかし、神の側から、神自身が自分を現すことができます。神自身が神自身の意志で、自分自身のことを示すことができます。これを「神の啓示」と言います。古代の人たちは、さまざまな自然現象の中に、神の啓示を受けて、これを信じたのでした。雷の響きの中に神の声を聴き、嵐や地震を神の怒りとして受け取りました。また預言者たちは神の声を聞きました。
「いまだかつて、神を見た者はいない」
神というものを見た人はいません。見えない神を信じない人たちもいます。見えないということのゆえに神の存在を認めない、認めたくないという人たちもいますし、神の存在などまったく関心のない人たちもいます。しかし、神は、神を信じる人たちにも、神を信じない人たちにも、同じように、太陽の光を注ぎ、雨が降らせ、命を与え、命を奪い取られます。
「いまだかつて、神を見た者はいない」
神というものを見た人はいません。しかし、目に見えない神から啓示を受け、これを自分の心でしっかりと受け取り、これを信じた人たちがいました。これを受け入れ信じた人々には、さらに強い神の啓示が与えられました。これを受け入れ信じた人たちは、これを他の人々に証しし、次々と時代を越えて伝えられました。その証しを聞いた多くの人たちは、またこれを聞いて信じました。聞いて信じた人たちは、神の意志に、神のみ心に従って生きることを決心し、神の恵みに満たされ、神に感謝し、神を賛美する生き方に生まれ変わりました。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)
新約聖書の中のマタイとルカの福音書には、おとめマリアが聖霊によって身ごもり、ユダヤのベツレヘム、ある宿屋の馬小屋で男の子が生まれたと記されています。そして荒れ野で野宿していた羊飼いが天使の御告げを受けて、幼子を拝みに来ました。さらに東の方から占星術の博士たちがはるばるこの幼子を拝みに来たというキリスト誕生の物語が記されています。
マルコの福音書には、キリストの誕生については一切触れられていません。
そして、4番目のヨハネの福音書では、キリストがこの世に来たということを、きわめて抽象的な書き方で伝えています。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」(ヨハネ1:1、2)という言葉で始まっています。
私たちは言葉を話します。言葉で自分の意志を伝えます。言葉で命令し、言葉であやまり、言葉で人の心を理解します。私たちがものを感じたり、考えたりするのも頭の中を言葉が行き交っているのだと思います。
旧約聖書のいちばん最初の創世記、天地創造の物語の冒頭に、
「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」(創世記1:2、3)とあります。
「光あれ」という言葉で天地の創造が始まりました。「光あれ」という言葉こそ神の言です。神の意志であり、神のみ心そのものです。
「言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」
そして、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)
この神の意志、神のみ心、神である言が肉体を取って、わたしたちのところに来られ宿られたというのです。この肉体とは、わたしたちと同じ肉体です。わたしたちと同じ人間になられたということです。決して強くない弱い肉体です。傷つき、痛み、血を流す肉体です。食べないと生きていけない、排泄もしなければならない、睡眠も取らねばならない、疲れて動けなくなる肉体です。いわば制限だらけの限界をいっぱい背負った人間の肉を取って、神の独り子が人間になられたということです。
「いまだかつて、神を見た者はいない。」と言われている目に見えない神が、人間の肉体を取って、わたしたちに見える神として現されたとヨハネは断言します。
人間の肉体を取って見える神となられたこの方は、イエスと名付けられ、キリストと呼ばれました。わたしたちはその方に神の栄光を見ました。その栄光というのは、父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ち満ちていました。そして、私たちはこの方によって生きる者となったのです。
かつて神はさまざまなかたちで、人々にご自身を啓示されました。しかし、今から約2千年前、今までにない方法で、今までにないかたちでご自身を啓示されました。「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのです。」
私たちが住む地球は約46億年前に生まれたといわれます。この地球に生命が誕生したのが約38億年前、そしてヒトの先祖の誕生が約700万年前と推定されています。そこから始まる人類の歴史の中に、神の意志が決定的な瞬間として、見えるかたちで示されたのです。
「いまだかつて、神を見た者はいない。」と言われた神が、私たちに見えるものとなったのです。
鼻をつままれてもわからないような真っ暗闇というものがあります。そのような真っ暗闇の中に、突然一条の光がさしてきました。その光は人を照らす光です。その光は闇の中にうごめいているすべてのものを照らしだし浮かび上がらせます。光は暗闇の中で輝いています。
しかし、人々は、暗闇は光を理解しませんでした。
言は世にありました。世は言によって成ったのですが、世は言を認めようとはしませんでした。言は、自分の民のところへ来たのですが、民はこれを受け入れませんでした。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えました。神の子となる資格を与えられた人々は、人間の生まれや知恵や欲望によってその資格が与えられたのではなく、神によって新しく生まれたのです。
「いまだかつて、神を見た者はいません。」しかし、今日、私たちに父のふところにいる独り子である神、この方が示されたのです。
この方を受け入れようとして、今日、一人の姉妹が洗礼を受けます。
私たちも暗闇に輝く光、この世に宿られた言を受け入れ、または受け入れた者として、心から感謝をささげ、神を賛美しましょう。
(2005年12月25日 降誕日説教 於・聖アグネス教会)