人間が人間となるために
2005年12月25日
クリスマス、おめでとうございます。
クリスマス・イヴの夜、手に持ったろうそくの灯を眺めなが、一人一人、自分の心の中を覗いてみたいと思います。
私は、毎年、クリスマスにテーマを設けているのですが、今年はなぜか「ほんとうのクリスマスとは」という言葉が頭の中をよぎって仕方がありません。そこで、皆さんといっしょに、この「ほんとうのクリスマス」ということについて考えてみたいと思います。
ずいぶん昔ですが、私が若かった頃のことでした。
大阪の梅田、阪急電車の改札の外で、誰かと待ち合わせをしていました。柱か壁を背中にして、大勢の人が行き来する雑踏をぼんやり見ていました。その時に、一人の男性が、私の前に立って、しげしげと人の顔を眺めていましたが、突然、言いました。「あんた牧師さんか? 人間は要するに人間らしく生きたらええねん。人間らしく生きたらええねん」と言って、くるっと向こうを向いて歩いて行き、雑踏の中に消えていきました。
私は、びっくりしました。聞き返すことも、返事することも出来ない一瞬のことでした。私は、黒い服を着て、カラーをしていて、一見して神父や牧師とわかる服装でしたから、そう言ったのだと思います。誰と待ち合わせをしていたのか、それからどこへ行ったのか、そんなことは全然覚えていませんが、何とも失礼な人だと思いながら、その人が言った「人間らしく」という言葉が耳に残り、いつまでも考え込んでしまったことを覚えています。
その人は、「お前は神などという目に見えない、よくわからないものを信じているのか。そんな宗教などに頼らずに、要するに人間は人間としてありのままに生きたらいいのだ」というようなことを言いたかったのかも知れません。また、「要するに人間は、生まれたまま、本能のままに生きていけばいいのだ」ということを教えてやろうとしたのかもしれません。ほんとうの意図を確かめることができませんので推測するより仕方がありませんでした。
さて、ここで考えてみたいのです。
人間が「人間らしく」生きるということは、どういうことでしょうか。多くの場合、「人間らしく生きる」というと、自分の好きな時に食べて寝て、好きな時に好きなことをする生き方、何も恐れるものはなく、何からも誰からも束縛されずに、自由奔放に生きて、生活している姿を思い浮かべるのではないでしょうか。もっと極端に言えば、本能のおもむくままに、自然の大地、野山を駆け回る動物のような生き方、野性的な生き方を思い浮かべるのではないでしょうか。
「らしい」という言葉を辞書で見ますと、いろいろな意味があるのですが、「いかにも〜〜と思われる」とあります。人間がいかにも人間と思われる生き方をすることが、人間らしく生きるということになります。
そうするとここで大切なことは、それでは「人間」と何かということになります。ある人は、人間というと、生まれたままの、動物的な本能まる出しの限りなく動物に近い人間を思うでしょうし、また、ある人は精神的にも肉体的にも完成された強い人間を思うかも知れませんし、反対に、弱い弱い、どうしようもない人間の姿を思い描くかも知れません。
聖書では、そこのところはどのように語られているでしょうか。
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(1:27)
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(2:7)
旧約聖書の創世記にこのように記されています。古代の人々は、人間とはこういうものですよということを物語として語り伝え書き記しました。
まず、第1に、人間は、神によって造られたものであるということです。私たちの生命は、目に見えない大きな力、すなわち神によって与えられ、生かされているということです。
第2に、人間は、神にかたどって創造されたとあります。人間は、他の動物と同じように、動物の一種に違いありません。しかし、他のどんな動物とも違うところがあります。ただ動物的本能で動くだけではなく、理性があって、自分で自分をコントロールすることが出来ます。ものを造り出すことができます。過去を語り、未来について考えることもできます。言葉で気持ちや意見を表し伝えることができます。決して神と同じではありませんが、神に似たものとして、造られ、存在させられています。
第3に、土から造られ、息を吹き込まれて生きるものとなりました。それは、肉体を備え、神の霊が吹き込まれて生きるものとされていると言います。
このことを言いかえますと、人間は、神でもない、単なる動物でもないということです。ですから、人間は神になってもいけませんし、動物になってもいけません。しかし、人間が神にならず、動物にならず、神が創造されたままの人間であり続けるということはこれほど難しいことはありません。人間は、神が人間を造られた意図に反して、神の意志に背いてしまいます。神に背を向け、神を無視し、神に反抗し続けて生きています。人間にとって、すべての不幸の原因は、この神との間に生まれた断絶のせいだと聖書は教えています。
ヨハネ福音書は、イエス・キリストの誕生を次のようにとらえました。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1:14)
イエス・キリストがこの世に来られたのは、神をご自身の父として指さし、人々に神を知らせるためであります。
別の言葉で言いかえますと、イエス・キリストがこの世に来られたのは、私たち人間が、ほんとうの人間であることが出来るために来られたのです。神のようになってしまって、思い上がる人々を引き下ろし、動物のように食べて寝て、本能、欲望の中にうごめいている人々を引き上げ、神と人との断絶から和解させるために、私たちの間に、この世に来られました。
ろうそくの灯を眺めながら、自分の心の中をふり返って見ましょう。
蛍光灯や電球の光に惑わされて、ほんとうの火の色を忘れてしまっています。古代の人々は、長い間、この光を眺めて暮らしていました。たしかに、私たちの生活は便利になり豊かになりました。しかし、人は自然の火の光を忘れるとともに、心の中の大事な部分を失っているような気がします。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」 (�汽茱魯�4:7〜11)
「ほんとうのクリスマス」とは、それは、このことをしっかりと受け取ることにあります。神が与えてくださった愛と恵みに、心から感謝し、ともに祝いましょう。
(2005年12月24日 降誕日前夕説教 於・聖アグネス教会)