「イエスさまならどうなさるか」

2006年01月02日
ルカ福音書2:21  明けましたおめでとうございます。  昨年は、皆さんにとってどのような年だったでしょうか。  昨年与えられた恵みに深く感謝し、新しい年が、祝福で満たされた年となりますよう心から祈りたいと思います。  今日の主日は、教会の暦では、「主イエス命名の日」と言われる日です。そして、「降誕後第1主日」であり、一般の暦では「元旦」です。  主イエスは、ユダヤ社会の習慣に従って、生まれて8日目に、割礼という儀式を受け、「イエス」と名がつけられました。この名前は、母マリアの胎内に宿る前に、天使から示された名であると伝えられています。  主イエスは、いろいろな名前で呼ばれています。誰でも知っている呼び名としては、「イエス・キリスト」という名前ですが、イエスが名前で、キリストが苗字だと思っている人がいます。実際はそうではありません。キリストとは、メシヤ、「油注がれた者」という意味で、「救い主」という意味です。後の時代にイエスを信じた人たちから付けられた称号、身分を表す肩書きでした。  「イエス」という名は、ギリシャ語で、「救い」を意味します。旧約聖書が書かれたヘブル語では「ヨシュア」と言い、「ヤーウェは救いである」を意味しています。イエスという名は、ユダヤ人の間で、最も広く用いられていて、ごくありふれた普通の名前で、非常に多かったようです。  その他には、「ナザレのイエス」「ダビデの子」「インマヌエル」などがあります。主イエスには、まだ他にもいろいろなニックネームや称号で呼ばれています。その名前、呼ばれ方を通して、その方がどのような方であるかがわかります。  さて、今日は「元旦礼拝」でもあるわけですが、皆さんは新しい年をどのようにお迎えになったでしょうか。  昔というか、私が子どものころは、元旦というと、なにか身も心も新しくなるという気分がありました。着るものも履くものも、何もかも全部新しくしてもらって、ほんとうに新しい自分になったような気分でお正月を迎えたものでした。しかし、このごろはあまりそういう意味では、新しくなるとか「改まる」とかいう感じが少なくなったような気がします。  パウロは、エフェソの信徒への手紙4:22、23に次のように言っています。 少し要約して言いますと、 「以前のような生き方をしている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着けなさい。」  私たちが新しくされるのは、キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるということを、その通りに学んだはずです。だから、「以前のような生き方をしている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着けなさい。」というのです。聖書では、「新しくされる」とか「改まる」ということは、暦がかわり、お正月が来たから変わるものではようなものではなく、イエス・キリストによって新しくされる、イエス・キリストによって生まれ変わるのだと教えています。  それでは、イエス・キリストによって新しくされるとはどういうことなのでしょうか。  先日、テレビで、京都のある有名な禅宗のお寺が紹介されていました。若い僧侶が入門を許され、朝早くから夜まで、禅に明け暮れして修業する姿が紹介されていました。座禅を組んでいる時も、食事をする時も、庭の掃除など作業をすることも、托鉢をして町を歩く時も、すべて細かく定められた作法通り、これを厳しく守ることが求められています。  その中で、そのお寺の偉いお坊さんが、インタビューに答えて言っていました。禅の神髄は「真似をすることです」と。開祖以来、歴代の先輩修業者の真似をすること。まずただひたすら真似るということ、徹底的に真似をすることが修業だと言います。徹底的に真似ることができた時、初めてほんとうの個性というものが光るのですと言っていました。  これを聞いて、なるほど、キリスト教にも共通するところがあると感じました。  私たちの信仰というものも、先ず信仰の良き先輩の考え方や生活、行動を真似るところから出発するのではないかと思いました。毎週、毎日、繰り返している礼拝も、このような礼拝の形を生み出し、語り伝えた、千年を越える私たちの先輩の礼拝生活を、実は真似ているのではないかということです。それをさらにさかのぼれば、主イエスにたどり着き、私たちの信仰生活は、あのイエスという方の考えておられることを私たちの考えとし、あの方が愛されたように人を愛し、あの方が生きたように私たちも生き、そして、あの方が死なれたように私たちも死ぬということです。徹底的にあの方の真似をしようとすることが、私たちの信仰に生きるという生き方です。  主イエスは、そのことを「私に従いなさい」と言われました。  「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 (マタイ16:24)  主イエスに従うということは、主イエスについて行くということです。主イエスが歩まれる足跡を踏みながらついて行くということです。その時には、自分を捨て、自分の十字架を背負って、ついていくのです。  そして、パウロは、同じことを、「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」という表現で、人々の勧めました。人がぬいぐるみや着ぐるみを着て、その動物や人間に成りきるように、キリストによって新しく生まれ変わった人は、キリストその方を上に着るのです。  「キリストの真似をする」、「キリストに従う」、「キリストを着る」、それは同じこと言っているのだと思いますが、それは、もう少し具体的に言えば、どうすればいいのでしょうか。  私は、ここで、今年の年頭にあたって、提案したいと思います。  それは、「イエスさまならどうなさるか」と考えながら毎日の生活をするということです。ほんとうは、24時間、毎日、「イエスさまならどうなさるか」と考えながら生活できれば、すばらしいのですが、なかなかできません。一日に1回でも2回でも、何かの時に、「こんな時、イエスさまならどうなさるか」を考えるのです。  とくに困った時、苦しくなった時、行き詰まった時、「イエスさまならどうなさるか」と考えてみるのです。そして、「イエスさまならそんなことはなさるはずがない」「きっとこうなさるに違いない」と思った時には、勇気をもって、それを実行するのです。それも、すぐにはすべて実行出来ないかもしれません」しかし、少なくとも、一歩でも二歩でも、それに近づこうと努力してみることです。  そのためには、イエスさまの考えや、イエスさまのなさったことを良く知っていなければなりません。聖書も読んでみなければ、正しいイエスさまの答えは出てきません。  「イエスさまならどうなさるか」これを私たちの今年の合い言葉にしたいと思います。     (2006年1月1日 主イエス命名の日(元旦礼拝)説教)