あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者

2006年01月08日
マルコ1:9〜11  今日は、「顕現後第1主日」という日です。「顕現」とは、神が、神の方からご自身を人々の前に現されることを言います。日頃、神は隠れておられる神です。私たちの目には見えませんし、声を聞くこともできません。  しかし、時には、ちらっ、ちらっと、ご自身の方からご自分の御意志を現されることがあります。主イエスの誕生物語の中では、星を通して東方の占星術の学者たちにキリストの誕生を知らせ、また、天使たちを通して荒れ野で野宿して羊の番をしていた羊飼いたちに、そのことを知らせました。このように神はいろいろな方法でご自身を現されます。  教会の暦では、1月6日を、「顕現日」といい、マタイの福音書2:1〜12東方の博士たちがベツレヘムにやってきたという聖書の個所が読まれます。もともとは、西方教会と言われるローマ・カトリック教会に対して、東方教会と呼ばれるオーソドックス教会、ギリシャ正教やロシヤ正教では、この1月6日が、キリストの誕生の日として守られていたところからこの日が記念されています。  さらに、今日の主日は、「主イエス洗礼の日」という特別の記念の日でもあります。  主イエスは、ガリラヤのナザレという町で育ち、大工であったヨセフと母マリアのもとで成長し、青年となりました。ルカ福音書によると、主イエスが宣教を始めたのはおよそ30歳の時であった(ルカ3:23)と記されていますから、その時から、人々の前に、突然姿を現されました。  主イエスが現れる前に、洗礼者ヨハネという人が、ヨルダン川沿いの一帯で、人々に悔い改めを勧め、ヨルダン川で洗礼を授けていました。  洗礼をバプテスマと言いますが、ギリシャ語の「水に浸す」という意味から来ています。洗う、清める、魔除けと言った意味から旧約聖書の時代から古くから用いられていた言葉でした。とくに後期のユダヤ教では、他宗教からユダヤ教に改宗する時に、割礼、洗礼、供儀を行うことが大事な儀式であったと言われています。とくに、主イエスの時代には、クムラン教団という非常に厳しい戒律を守る一派があり、彼らは、差し迫った神の審きを説き、悔い改めを迫り、悔い改めた者には洗礼を授けていました。ここに登場する洗礼者ヨハネも、このクムラン教団の一人ではなかったかと言われています。  洗礼者ヨハネは、ユダヤの人たちに、罪の悔い改めを迫り、悔い改めた者に洗礼を授けていました。そこに主イエスが現れ、このヨハネから洗礼を受けました。マルコ福音書は、「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」と、さらっと書いてありますが、これは、私たちに非常に難しい問題を投げかけます。  主イエスは神の子であると信じています。したがって主イエスには、罪がない。罪を犯すはずがありません。洗礼者ヨハネが勧めていたのは、罪の悔い改めであって、主イエスは、そのような洗礼を受ける必要があったのか、なぜ、洗礼をお受けになったのかという疑問です。  そのことは、すでに初代教会でも問題になっていたようです。マタイ福音書によりますと、 「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。‥‥‥」(3:13〜16)とあります。最初、ヨハネは、主イエスの洗礼を思いとどまらせようとしたと記されています。  このことについて、多くの神学者がさまざまな解釈をしてきました。  主イエスは、神でありながら人になられた方です。完全な神でありながら、同時に、私たちと同じ肉体と取って、完全に人となられました。ご自身は罪を犯していなくても、人として、他の人間と同じ罪を負われたのだと考えます。主イエスの生涯は、苦難の僕として、十字架に向かって歩まれました。人々の罪が赦されるとする洗礼は、主イエスにとってすべての人の罪を担う苦難の僕としての道を歩む第一歩であったということです。人々に替わって、すべての人の罪の赦しを得させる代償として、苦難の後、十字架の死を遂げなければならない使命を負っておられました。その自らの使命を確認するかのように、罪人との連帯のために洗礼をお受けになったということができます。  さらに、主イエスは、ヨハネが止めようとすることに対して、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と言われました。「正しいことをすべて行うのは」という正しいこととは、何でしょうか。それは、人間が考える善悪、良い悪いということではありません。神のご意志にかなっているかどうかということです。神のみ心にかなっていることだけが正しいことです。神の意志に従うことのみに生きようとする生き方を示しておられます。  主イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになるということは、神のご意志だからだと言われます。  再びマルコの福音書にもどりますと、  「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」(1:10,11)とあります。  このような現象は、主イエスがご自身で、主イエスだけがご覧になったものでしょう。主イエスのこれから歩もうとされる道のりへの使命感の確認とますます強く神の意志に従おうとされる、その瞬間にこれに応えるかのように、聖霊が降り、神の声が聞こえました。    「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえてきました。  神は、最も愛する神の独り子をこの世にお与えになりました。神は、その独り子を、人々の罪を負って十字架への苦しみの道を歩かせるためにこの世にお遣わしになりました。そして、そのことを確認するように、父である神の意志に従おうとする御子の存在を確認するように、 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえてきました。主イエスは、その声をはっきりと聞き取られのでした。  主イエスのその後の歩みの中で、もう一度、この声に触れられたことがありました。  それは、主イエスが、ご自分が「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と、はっきりとお話しになり、弟子たちに教え始められたその直後のことでした。(8:31,32) 弟子たちの中から、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登り、その頂で、主イエスの姿が変わったという出来事がありました。衣服が真っ白に輝き、そこで、主イエスは、モーセとエリヤと3人で話しているという光景を3人の弟子たちは見ました。  この時に、「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」という声がしました。今度は弟子たちがこの声を聞きました。  いよいよ、これから、十字架への道を歩み出そうとされる、その時、再び「これはわたしの愛する子」という、父なる神の確認するような呼びかけが聞こえてきました。主イエスの十字架への苦難、その苦しみは神ご自身の苦しみであり、主イエスの痛みは神ご自身の痛みです。その苦しみと痛みは、同時にすべての人々の苦しみであり痛みです。神ご自身がこれを負ってくださろうとしています。  神は、このようにして、ちらっ、ちらっとご自身の心を現されます。  これを受け取る方法は、私たちが信仰をもって受け取る以外には方法はありません。私たちの信仰の耳をもって神の声を聴き、信仰の目をもって神が示される出来事を見届け、信仰の心をもって感じ、受け入れるのです。  神は、神の方から信号を送り続けておられます。私たちの心が鈍く、私たちの心が他のものに妨げられて曇ってしまい、その信号を見落としたり、無視してしまったりします。  そして、何よりも最大の、決定的な神の「顕現」は、主イエスを私たちにお遣わしになったことです。この方を通して、私たちは神のご意志、み心をはっきりと受け取ることができます。  この顕現節の間、主ご自身が、私たちに語りかける声を聴きたいと願い、心を研ぎ澄ましたいと思います。 (2006年1月8日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日説教)