「ナザレから何か良いものが出るだろうか」

2006年01月15日
ヨハネ福音書1:43〜51  私たちには、毎日、誰かに出会います。毎日、「出会い」ということを経験しています。人は、一生の内に、いったい何人の人たちに出会い、何人の人たちと別れるでしょうか。  人の出会いというものも、人によってずいぶん違います。ある人との出会いによって、人生がガラッと変わってしまうようなドラマティックな出会いもあれば、すぐに忘れてしまうような出会いもあります。  私たちが、主イエスと出会うということは、まさに、人生が180度変わってしまうような出会いです。その出会い方は、急激に劇的な変わり方をする人もいますし、何十年もかかってゆっくり変わっていく人もいます。また、本人は主イエスと出会っていると思っていても、まだほんとうの出会いに至っていない人もいるかも知れません。  ここにナタナエルという人がいました。この人は、ガリラヤ地方のカナの出身の(ヨハネ21:2)人でした。どこで何をしていた人なのか、その時何歳ぐらいの人だったのか、くわしいことはわかりません。  この人が、フィリポという人に会いました。フィリポは、シモン・ペトロとその兄弟アンデレの出身地であるベトサイダの人でした。  フィリポは、主イエスがガリラヤへ行こうとしておられる時に、主イエスに出会い、主イエスから「わたしに従いなさい」と言われて、すぐについて行った人でした。主イエスの12人の弟子の一人になっています。  その後で、フィリポは、ナタナエルに出会ったのです。 「わたしは、イエスという人に出会った。この人はナザレの町の人で、ヨセフの子イエスという人だ。この人は、モーセが律法に記し(申命記18:18)、預言者たちが預言している(イザヤ7:14、エゼキエル34:23、ミカ5:1、ゼカリア9:9)、すなわち旧約聖書に預言されているメシヤだ。救い主だ。」と言いました。 すると、ナタナエルは言いました。 「何を言っているんだ。預言者ミカは言っているではないか(ミカ5:1)。   エフラタのベツレヘムよ   お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、わたしのために   イスラエルを治める者が出る。 われわれが待ち望んでいる救い主は、ベツレヘムから出るとはっきりと言っているではないか。ナザレからそのような方が出るということなど今まで聞いたことがない。そんなことはあるはずがない」と。  すると、フィリポは「来て、見なさい」と言いました。  ナタナエルは、フィリポの後について行くと、ちょうどそこに、主イエスが歩いて来られました。 主イエスは、ナタナエルが自分の方へ来るのを見て、初対面の彼に突然言われました。 「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 ナタナエルはびっくりしました。初対面のこの人から、突然、周りの人々から呼ばれている評判の呼び方で呼びかけられたのです。たぶん、ナタナエルという人は、神の律法をよく学び、これを守り、神と人々に対して誠実で、正直者で、人々から尊敬されている人だったのでしょう。 ナタナエルが、「あなたは、どうしてわたしを知っておられるのですか」と尋ねると、主イエスは、さらに答えて言われました。 「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た。」  当時の熱心なユダヤ教の信者は、木の下で、律法を読み、黙想をするのが常でした。とくに葉が生い茂ったいちじくの木の下は、涼しく黙想に適した所とされていました。ナタナエルは、フィリポに会う前には、いちじくの木の下でいつものように黙想していたのです。  まったく初対面の主イエスが、ナタナエルの過去の行動を知っていたのです。まさに透視術を使って、ナタナエルの生活を見透かしたような不思議な言葉でした。 これを聞いて、ナタナエルは、 「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言って信仰告白をしました。  それ以後、ナタナエルは、主イエスに従う者となり、弟子の一人になったと言われています。12人の弟子たちのリストの中で、フィリポの名の次にバルトロマイという人の名が出てきますが、たぶんこの人がナタナエルのことではないかと言われています。  この主イエスと、ナタナエルの出会いは、私たちにいろいろなことを教え、考えさせてくれます。  第一に、ナタナエルが、フィリポに言った「ナザレから何か良いものが出るだろうか」という言葉について考えてみたいと思います。  ナタナエルは、律法をよく勉強し、それを良く実行していた人、誠実な人、正直な人で、ユダヤ人の模範とも言うべき人だったのでしょう。律法をよく紐解き、「救い主は、ダビデの子孫として、必ずベツレヘムから現れる」という預言者の言葉を知っており、そのように固く信じていました。そのために、ほかのことが考えられません。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言って、ガリラヤ地方やナザレという町を低く見て、フィリポの証言を聞こうとしませんでした。そのために、フィリポの言葉を受け入れられず、主イエスとの出会いを拒絶しました。  ナタナエルの目と耳をふさがせ、心を閉じさせたのは、何だったのでしょうか。それは、ナタナエルが学んだ知識であり、経験であったのです。その知識に捕らわれ、それにこだわって、そんなことはあるはずがない、そんなことはありえないと断定してしまいました。  私たち自身にもそのようなことが、よく起こります。どこかで、何かによって得た知識、そして、過去の経験、それは貴重なものですけれども、一方では、そのために「思いこみ」という落し穴に落ち込んでしまい、過信し、膠着し、傲慢になり、自分自身も他の人も傷つけたり、不幸にしてしまうことがあります。  神に対しても、信仰生活においても、間違った知識や思いこみは、ほんとうの神や主イエスとの出会いを妨げ、神よ、神よと言いながらどんどんと神から遠いところへ行ってしまうことがあります。私たちが神の前に懺悔し、悔い改め、赦しを得るということは、そのような頑なな自分、思いこみや過信している自分から解放され、弾力にとんだ柔らかいしなやかな心を取り戻すこと、取りもどさせたいただくことだと思います。  第二に、フィリポが言った「来て、見なさい」という言葉について考えたいと思います。この言葉は、日本語でいう「来てご覧なさいよ」という意味ではありません。聖書の言葉は、「自分で来て」、そして「自分の目ではっきりと見なさい」ということです。  「キリスト教ってどんな宗教ですか」「キリスト教の礼拝って何をしているのですか」と、尋ねられた時、口で説明し、身振り手振りで説明するよりも、「先ず、自分で来て、そして自分で見てください。」自分で聖歌を歌い、一緒に礼拝に参加して下さい」と言って、そのようにしていただくと、直接、キリスト教に触れ、キリスト教の礼拝の出会うことになるのではないでしょうか。  ナタナエルはフィリポについて、歩き出しました。すると、主イエスが向こうから歩いて来られます。ナタナエルは、主イエスに出会いました。 しかし、先に声をかけたのは、主イエスでした。私たちの神との出会い、主イエスとの出会いは、まず、先に神の声を聴くところから始まります。まず、心を謙虚にして、聴くことから始めなければなりません。  主イエスは、ナタナエルに語りかけました。それは、ナタナエルと表面的形式的な言葉を交わすのではなく、初対面にして、彼の性格を、その内面を見抜く言葉でした。ナタナエルはびっくりしました。そして、さらに過去の姿を言い当てられたました。主イエスによって奇跡が起こったのです。人の心を見通し、人の過去の出来事をも言い当てる神の力があらわされたのです。その時、ナタナエルに180度、生き方が変わる出会いが生じたのでした。  ナタナエルは、次の瞬間、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と、キリストに対する信仰の告白をしました。 人の思いこみ、過信、傲慢、頑な、その鎖につながれ、がんじがらめになっているその生き方を変えてくださるのは、キリストによる奇跡です。 私たちが、信仰を持って生きるということは、そこに「奇跡が起こっている」ことを忘れてはなりません。理屈や理論だけではなく、飛躍がなければなりません。私たちの知識や経験の中だけでは、どんなにそれをひねくり回しても、がんじがらめの鎖を解き放つことはできません。私たちが救われるということは、私たちの心をつないでいる鎖から解放されることです。 あなたは、ほんとうに主イエスに出会っていますか。もし、まだ出会っていないとっっすれば、主イエスとの出会いを妨げているものは何ですか。「来て、見なさい」。主イエスご自身が、そう言ってあなたを招いておられます。       (2006年1月15日 顕現後第2主日(B年)説教)