「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
2006年01月21日
マルコ1:14〜15
主イエスは、子どもの頃から、ガリラヤ地方のナザレという町で生活しておられましたが、30歳になられた時、突然、人々の前に姿を現されました。福音書によりますと、ヨルダン川で、悔い改めの洗礼をユダヤの人々に迫っていた洗礼者ヨハネに会い、そこでヨハネから洗礼をお受けになったと記されています。それから、荒れ野に導かれて、40日間、断食をし、そこでさまざまな誘惑を体験し、これに打ち克たれました。
その後で、主イエスは、突然、人々の前に、姿を現されたのでした。
その少し前に、一つの事件が起こっていました。それは、あのヨルダン川で洗礼を授けていたヨハネが、当時のユダヤの王ヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、牢獄につながれるという出来事でした。その出来事のすぐ後で、主イエスはガリラヤに姿をお見せになったのです。
その時から、十字架につけられてなくなるまで、約3年間という短い期間ですが、この3年間に、教えられたこと、さまざまな奇跡を行われたこと、弟子たちを派遣されたこと、そして、十字架に向かって歩み始められたことが、今日のキリスト教の始まりであり、それ以後2千年の月日を経て今日に至るまで、この方によって影響を受けた世界中の人々の数は、到底数え尽くせるものではありません。そして、今、私たちも、この方によって、救われ、希望が与えられ、生かされていることを確信しているのです。
ガリラヤに現れた主イエスは、神の福音を宣べ伝え始められました。マルコによる福音書によりますと、福音宣教の第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。
誰でも、何をする時にも、第一歩とか第一声というものは大切です。その第一歩、第一声によって方向が決まります。
マルコが伝える主イエスの宣教開始の最初のこの言葉は、聖書の中の聖書、福音の中の福音とさえ言われます。主イエスの教え、行い、その御生涯のすべて、主イエスの宣教のすべてが、この言葉の中に要約されていると言われます。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
この言葉について、考えてみましょう。
第一に、「時は満ちた」と言われます。「人々が待ちに待ったその時が来た」という意味であり、木や草のつぼみがふくらんで、時が来るとはじけるように突然花を咲かせるように、時が来たことを知らせます。
この時とは、何の時でしょうか。まず、洗礼者ヨハネが捕らえられたという出来事から見る時です。ヨハネは、旧約聖書の時代の最後の預言者だと言われます。何千年もの間続いた旧約聖書の時代が終わった、今、新しい時が始まるということを意味します。さらに、その時は、偶然の時ではない。人間が延々と営む時間の延長でもない。神がお決めになる、決定的な時、神が定めた時が、今だと言われるのです。
その「時」の内容は、「神の国」が近づいたことを表しています。神の国が実現する決定的なその時を、神がお決めになり、そして、今、その時が来たのだと宣言されます。
それでは、その次に、「神の国」とは、どういうものなのでしょうか。
新約聖書の中では、「神の国」、「天国」、「天の国」という言葉がたびたび出てきます。また、ヨハネの福音書では、「永遠の生命」という言葉が出てきますが、これらの言葉を突き詰めてみますと、みな同じ意味だということがわかります。私は、この言葉を頭の中で、「ほんとうの幸せ」、「ほんとうの幸福」という言葉に置き換えて考えています。
大阪にいる頃、神学校を卒業して二つめの教会に転勤した頃でした。
1ヶ月かかって、赴任した教会の大掃除をし、張り切っていました。教会の門の前に、「聖書研究会 毎週水曜日、午後7時から」と書いて、看板もだしました。教会でもアピールして呼びかけました。しかし、この聖書研究会に、誰もきてくれません。約半年、扉を開けた部屋に座って、じーっと待っていました。
ある日、一人の男性が、初めて来てくれました。50歳ぐらいの人で、韓国系の教会へ通っているクリスチャンだということでした。その人といろいろ話をしていて、あることで議論になりました。その人は、強く強く天国の存在を信じていて、死んだ後は、天国へ行くのだと言い張ります。この世では、今、苦しくても一生懸命生きて、善いことをいっぱいしていれば、必ず天国に入ることができるというのです。今、信仰を持って生きるのは、死んでからどこへ行くのか心配だからだと言い張ります。私も若気の至りで、真っ向からそんなものではないと言い張りました。天国というのは、雲の上にあって、死んでから行く場所というようなものではない。そんな絵に描いたような天国なんてあるはずがないと言いました。最後には、その人は怒って席を蹴って帰ってしまいました。その結果、初めて来てくれた聖書研究会のお客さんを失い、また、誰も来ない日が続きました。
ルカの福音者の17:20に、「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と言われました。
「神の国というのは、実にあなたがたの間にあるのだ。」と言われます。ファリサイ派の人たちや弟子たちが主イエスの周りを取り巻いています。主イエスは、彼らの真ん中におられます。そして、多分、ご自分の鼻の頭を指さしながら、「わたしだ」「わたしだ」「わたしがここにいるではないか。わたしがいる所が神の国なのだ」と言われるのです。
主イエスは言われます。「神の国、すなわち天国は近づいた。それは、わたしがここに来たことがなのだ。神は、神の子であるわたしをこの世に遣わされた、わたしによって起こっている事実こそが神の国なのだ。」と言われているのです。神の御子によって、神の支配がこの世に徹底され、神の御意志が明らかにされたのです。この事実を信じて受け入れる時、それは、生きている今の世であろうと、死んでからであろうと神の国の状態なのだと言われます。
そして、「悔い改めて、福音を信じなさい」と、人々に宣言します。
「悔い改めよ」という勧告は、同じように洗礼者ヨハネも叫んでいました。それは、旧約聖書の時代に、旧約聖書に記されている律法を守り、神の掟に従えというものでした。掟に従わない人々に反省を促し、神の掟を守るというレールから外れた者を、もう一度レールの上に返すことが悔い改めであり、軌道に戻ろうと決心させることが悔い改めでした。洗礼者ヨハネの「悔い改めよ」は、神の律法に立ち帰れ、そうでなければ神の裁きが下されるぞというものでした。
しかし、主イエスの勧める「悔い改めよ」の意味は、旧約聖書の律法の世界、掟の支配に連れ戻すものではありません。今までにない、まったく新しい神の御心に基づく「悔い改めよ」でした。それは、律法を守ろうと思ってもなかなか守ることが出来ない、神の御心に従うことの出来ない、どうしようもない人々のために、そのような私たちのために、神の御子は、命を与えて、死んでくださったということです。そのために私たちの身代わりになって下さったということです。そのことを通して、神の愛が表されたということです。そして、三日目によみがえり、死に打ち勝ち、神のもとにあって栄光を現されたということです。
このことを、「神の福音」と言います。福音とは、Good News、良いニュース、喜びの知らせという意味です。まさに、神の御子がこの世に遣わされたました。私たちのために主イエスが来てくださいました。そのために私たちが、死んだと同様な生き方であった者が生きるようになったのです。私たちのところに救いが来たのです。神の救いが今はっきりと現されたのです。その知らせが伝えられようとしているのです。
そして、神の子イエス・キリストを受け入れなさい。「イエス・キリストを受け入れない者から、受け入れる者になりなさい」ということが、主イエスが言われる「悔い改め」の内容です。主イエスの言う「悔い改めよ」は、その次の言葉、「福音を信じなさい」という言葉につながっているのです。
主イエスは、神の福音を伝える方であり、神の福音を宣言する方であり、そして、ご自身が、神の福音の内容そのものであり、福音そのものなのです。
みんな幸せになりたいと願っています。お金があれば、幸せになれると思ってあくせくしています。健康があれば、地位があれば、特別の能力があれば、と思って、一生懸命努力しています。それらはみんな、目に見えるものばかりです。ほんとうに、それらが手に入れば人間は幸せになれるのでしょうか。私は、ほんとうの幸せというのは、病気にならないこと、死なないことではなく、病気も死も、あらゆる苦悩をも背負ってくださるイエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストのために生きる、私の体が頭の先から、足の先まで、すべて、キリストによって支配されることだと思います。
「時が満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」 あなたのために、時が来ました。神の子が遣わされ、神の御心、神の支配があなたの所に来ています。この方を受け入れる者、信じる者となりなさい。そして、この方を信じなさい。その時、ほんとうの充実、ほんとうの満足、ほんとうの喜び、ほんとうの安心、ほんとうの生き甲斐、ほんとうの希望に満たされます。
(2006年1月22日 顕現後第3主日(B年) 金沢聖ヨハネ教会)