中風の人をいやす

2006年02月20日
マルコ1:1〜12 1 中風の人をいやす奇跡物語  今、読んだ福音書から学びたいと思います。  ここに、主イエスが中風のために自分で動けない人の病気をいやされたという奇跡の物語が記されています。  先週にも申しましたが、今から約2千年昔、主イエスの時代の人々には、病気に対して今日の私たちのような医学的な知識は全然ありませんし、予防や治療の方法というものも知りません。病気というものは、神に罪をおかしたからだと考えられていました。それも宗教的な罪であって、どこかで誰かが神の掟を犯したから、神に背いたからだと信じられていました。ですから、病気が癒されるということは、罪が赦されることであり、病気と罪の問題というものは切り離して考えられないことでした。  今日の福音書の奇跡物語の背景にもこの病気と罪の問題があり、そして、この物語を通して、主イエスとは誰か、この方は何者か、私たちはこの方をどのように受け取るかが問われています。 2 中風の人を運んで来た4人の人  ガリラヤ湖の北岸にあるカファルナウムという町での出来事でした。 主イエスは、一軒の家の中で、人々に話をしておられました。この聖書の個所の少し前を見ますと、主イエスの話を聞きたい、病気を癒してもらいたいという人々が朝から晩まで群衆となって押しかけたとありますから、カファルナウムの町中の人が、主イエスのいるところに押しかけていました。家の中はいっぱい、入口の所も人でいっぱい、多分、道路まで人があふれ、人だかりがしています。  ここに一人の中風の男がいて、この人は自分で動けませんので、担架のようなものに乗せられて、4人の人に運ばれてやって来ました。  しかし、大勢の人に阻まれて、イエスの近くに連れて行くことができませんでした。そこで、この4人の人たちは、担架を担いでその家の屋上に上がりました。この地方、パレスチナ地方の家というのは、ほとんど石や日干しレンガで出来ていて、窓が小さく、外に階段がついていて屋上に上がることが出来ます。さらに屋根の部分は、雨の少ない地方ですから、梁に木の枝を渡し、粘土で覆われたりしていました。従って、屋根の一部をはぐことや穴をあけることは簡単にできたと思われます。  中風の男とこの人を連れて来た4人の人たちは、家の中に入れない、主イエスに近づけないということがわかっても諦めませんでした。  外の階段を使って、担架を屋上に運び上げ、主イエスがおられると思う部屋の真上の屋根をはがし、穴をあけて、この病人を寝かせたまま担架をロープでつり降ろしたのです。周りの人はびっくりしただろうと思います。  これは、無謀なというか、常識はずれの行為でした。確かに周りの人がびっくりするほど常識はずれのことをしたのですが、しかし、その背後に、この中風の男と、この人を運んで来た4人の男の人たちの一途さをうかがうことが出来ます。何が何でも助かりたい、救われたい、今、この時を逃がすと、二度とチャンスはない。この方しか頼るものはないという願い、祈りが感じられます。  この家を取り囲む群衆の誰も彼も、病気の人、病人を連れて来た人、みんな救われたいと、必死の思いで、主イエスの所に詰めかけて来ています。しかし、この4人の男の思いは、その誰の思いをも越えるものとでした。そして、その切実さがこのような行為に踏み切らせたに違いありません。  主イエスは、この人たちのご自分に対する信頼の姿を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。この人たちの「救われたい」という思いの一途さを、主イエスは信仰として受けとめ、この瞬間に、この人の罪は赦されていると権威をもって宣告されました。 3 律法学者のつぶやき  ところがこれを見守っている人たちの中に、もう一組の人たちがいました。それは、律法学者たちのグループでした。律法学者というのは、モーセの律法をはじめあらゆる律法、掟、習わしに精通している律法の専門家たちでした。主イエスの言動を監視するために、他の群衆に混じってそこに座っていたのではないでしょうか。  主イエスが中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたこの言葉を聞いて、心の中であれこれと考えました。  「このナザレのイエスという男は、なぜこんなことを口にするのだろうか。神以外に罪を赦すことができる方はいない。だのに大勢の人の前で罪を赦すなどと宣言するこの男は何者だ。この男は神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と、心の中でつぶやきました。  神は、忍耐と愛をもって、罪を赦してくださる。人の罪を赦すことが出来るのは、神だけです。彼らは律法の専門家ですから誰よりもよく知っています。だからこの男は神を冒涜していると、イエスを非難する思いが起こってきました。主イエスを神の子、神ご自身であることを認めていない、受け入れていない人たちからすると、そのように心の中でつぶやいたのは当然だったのかも知れません。  主イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われました。  「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。それでは言う。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と言われました。  それは、『あなたの罪は赦される』と言う方が易しいという答えが返ってきます。なぜならば、罪を赦すということは、神と人との関係のことで、人の罪が赦されたかどうかということは、その場では誰もわかりません。目に見えてすぐに結果が出るものではありませんから、言葉で発する罪の赦しの宣言はいくらでもできることになります。  それに比べて、病気の人を癒し、病人に向かって、立って歩けと命じて、そのようになるかならないかという結果は、すぐにあらわれます。目に見えて確かめることができます。ごまかすことはできません。ですから、そちらの方が難しいということになります。  主イエスは、あえて難しいほうをなさろうとされました。  「神の子、神であるわたしが、この地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」その結果は、主イエスが、罪を赦す権威を持っておられることを証明することになりました。  そして、中風の人に言われました。  「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 その人は起き上がり、すぐに自分が担ぎ込まれた、自分が屋根から吊り降ろされた担架を担いで、みんなが見ている前を出て行きました。 人々は、この様子を見て驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美しました。 4 新しい歩み  さて、ここに、主イエスの前に、2つのグループの人たちがいます。それは、中風の男とその人を担架に乗せて担いできた4人に人たちと、この中風の人の罪の赦しをする主イエスを見て、心の中でつぶやいた数人の律法学者たちのグループです。  主イエスを真ん中にして、2つのグループの人たちがいます。  さて、私たちは、わたしは、あなたは、主イエスと向かい合う時、どちらのグループにいるでしょうか。あなたの信仰の姿勢は、どちらの側にあるでしょうか。  律法学者たちは、神の掟について、しきたりについて、たくさんのことを知っています。そして、それに照らして、今、起こっていることを非難し、批判します。しかし、そのために自分の指一本も動かせ王としません。自分は変わりたくない、自分の考えや生活態度から一歩も外に出ようともしません。座ったまま動きません。  わたしはクリスチャンです。わたしはキリスト教のこと、教会に習慣や過去にしてきたことはよく知っています。しかし、わたしは変わりたくない、自分で築いた枠から一歩も出ようとしない。ただ座って批判したり、非難したりしているだけの人になっていませんか。ほんとうのクリスチャンとして生きているのではなく、単にキリスト教評論家に身を置いているだけなのです。  一方、中風の男と担架を担いできた4人の男たちはどうでしょうか。  中風の男と担架を担いできた4人の男たちは、人の家の屋根をはいで、屋根に穴をあけてまでして、主イエスに近づきたい、接近したいと願いました。主イエスに救いを求める一途さ、真剣さに心を打たれます。人がなんと言おうと、常識も過去のしきたりも、あらゆる「しがらみ」を越えて、この方に救いを求めました。「また、いつか」とか「そのうちに」とは言いませんでした。今、この時しかないのです。  主イエスは、その行為だけを見て、「子よ」と親しみを込めた言葉で呼びかけ、「あなたの罪は赦される」と言って、病気の原因と信じられている、赦しの宣言をされました。救われたのです。そして、さらに、担架を担いで歩き出す姿を目に見える形で現実のものとされました。そこに奇跡が起こったのです。中風の男は、自分が乗せられてきた担架を担いで、みんなが見ている前を出て行きました。これこそ新しく生まれ変わった信仰に生きる者の姿です。奇跡を起こすのは神です。私たちが奇跡を起こすのではありません。しかし私たちに奇跡を起こしてくださる器となることができます。神が、私たちに新しい命を与えて下さいます。神が私たちを生まれ変わらせ、日々私たちを新しくされるのです。  今日、このすぐ後で、二人の方が、洗礼をお受けになります。 中風の人が、天井から吊り降ろされて、主イエスの前に吊り降ろされるように、主イエスに近づき、罪の赦しの宣告を受け、新しい命に生まれ変わります。洗礼を受けて、キリストの体の一部とされ、兄弟姉妹呼び合うキリストの群れの一員となります。心から感謝し、主を賛美しましょう。そして、お二人のために心から祈りましょう。   〔2006年2月19日 顕現後第7主日(B年)説教〕