だれにも、何も話さないように気をつけなさい。

2006年02月20日
マルコ1:40〜45 1 顕現節の意味  教会の暦では、今、「顕現節」というシーズンを過ごしています。顕現とは、神の方からご自身を顕されることを意味します。私たちは誰も神を見た者はいません。触ったことも、直接声を聴いた者もいません。私たちは、自分の方から、どんなに努力しても、神を見ることはできません。ところが、神の方から、チラッ、チラッと、ご自身を現されます。神がご自身を、一方的な神のご意志によって顕されるのです。  聖書には奇跡物語がたくさん出てきますが、そのような私たちの常識を超越した不思議な出来事を通して、ご自身の存在、神のご意志を示されます。そして、そのような出来事を通して、私たちは神の顕現をどのように受け止めるかが問われています。 2 重い皮膚病を患っている人をいやした奇跡物語  ある時、主イエスのところに、重い皮膚病を患っている人が来て、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言って、主イエスの前にひざまずいて懸命にお願いしました。前の版の聖書では、この「重い皮膚病」という所を「らい病を患っている人」と訳されていました。癩という病気は、この世で最も不幸な病気といわれ、また人間が認識した最初の病気であるともいわれています。1874年にノルウエーの病理学者G・H・ハンセンによってらい菌が発見されたことからハンセン病と呼ばれています。1940年に、プロミンとか、スルフォン剤という薬が発見され、不治の病とされていたこの病気が完全に治療されるようになりました。それまでは、伝染することを恐れて隔離する方法しかなく、差別や人権無視が繰り返されてきました。  聖書の時代には、旧約聖書のレビ記13章、14章に細かい規定があり、単に病気の予防や衛生的な見地からというだけではなく、宗教的な「汚れ」として扱われ、この病気を負った人はすべての人間関係は絶たれ、悲惨な生活を強いられていました。  主イエスの噂を聞いてやってきました。このような重い皮膚病を患っている人は、人のいる所には出てきてはいけない、隔離されていなければならない人でした。しかし、その掟を破って、あえて近づき、主イエスに懇願したのでした。この方以外に救いはないという最後の望み、頼みの綱でした。「ひざまずいて願い」「御心ならば」「清くすることがおできになります」という言葉に命がけの懇願と確信をうかがい知ることが出来ます。  主イエスは、深く憐れんで、手を差し伸べて、この人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われました。このような重い皮膚病を患っている人を「汚れ」と受け取っていましたから、汚れたものに手を触れるということは掟を破ることになります。しかし、主イエスは、あえて律法違反を犯して手をさしのべ、その人に触れ「よろしい、清くなれ」と言われました。その動機は、深い憐れみであり、この「よろしい、清くなれ」という言葉は、天地創造の時、「光あれ」と言われたその言葉と同じ神の言葉でありました。  すると、この人の重い皮膚病はたちまち去り、その人は清められました。家庭から引き離され、あらゆる人間関係から引き裂かれ、社会的にも、経済的にも死んだ者と同じような扱いをされていた人が、生き返った瞬間でした。  飛び上がって喜び、立ち上がって立ち去ろうとした時、厳しく注意されました。厳しく命令されたのです。  第一に、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。」  第二に、「祭司の所へ行ってに体を見せなさい。」  第三に、「モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明し     なさい。」 ということでした。  第一は、ナザレのイエスという人に、このような重い皮膚病、らい病を癒してもらったということを、誰にもしゃべってはならない、一切話してはならないと命じられました。  第二は、祭司の所へ行って、手も足も、体中をみんな見せなさいといわれました。当時は、専門の医者などはいません。病気は悪霊に取り憑かれているとか、汚れだとか、罪の結果だとか、すべて宗教との関係で考えられていて、神殿に仕える祭司の所へ行ってそのことを判断してもらわねばなりませんでした。  第三は、ただ祭司に見せるだけではなく、祭司に清めの儀式をしてもらって、はじめて社会復帰ができると定められていました。そのためには、鳥や雄羊やオリーブ油や鳩を献げものとして献げ、手続きを踏んで、儀式をしてもらい、そのことを証明してもらわねばなりませんでした。 3 「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。」  主イエスが厳しく注意された、第一の言葉、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」という言葉について考えてみたいと思います。  このように主イエスは、しばしば奇跡を行われた後で、「誰にも言ってはならない」と口止めし、秘密保守命令とか口外禁止命令を出しておられます。なぜ、主イエスは、人には何も言ってはならないというような禁止命令を出されたのでしょうか。  神学者の間ではその理由が挙げられているのですが、その一つは、主イエスが、人々から誤解されて受け取られることを防ごうとしておられるだと言います。  今から2千年も昔のことです、当時は、今日のように科学や医学というものがまだ全然発達していない時代でした。病気の原因や体の仕組みがわからない時代でした。その時代の人たちが病気を治してもらう方法というのは、魔術師や呪術師に頼る他ありませんでした。超自然的な方法で意図する現象を起こさせようとする行為、信仰、考え方を呪術と言います。また特定の人や物が呪力があると信じ、呪文や特別の道具に特別の力があると信じ、その力を用いて病気や怪我の治癒など、自分たちの目的を達成しようとするものでした。  主イエスの時代には、このような呪術師、魔術師が横行し、神へのほんとうの信仰とそのような呪術、魔術の区別がつかない状況でした。  主イエスの噂を聞いて押し寄せて来る群衆の多くは、その区別がつかず、自分たちの願いをかなえてもらうために押しかけてきました。  主イエスは、ご自身がこの世に来られた理由、その使命は、そのような所にあるのではないことは明らかでした。深い憐れみの気持ちを持たれ、目の前の重い皮膚病を患っている人に奇跡を示されたのは、呪術師の一人として、単に病気の治療行為をしたのではありませんでした。主イエスが行われる奇跡は、人々を驚かせるものでありましたが、どの場合でも、神がこの世に介入され、神の力が顕され、神の栄光が示されるためでありました。  それは、言いかえれば、ご自分が何者か、誰であるかを示されることでした。しかし、多くの人々はそのことを理解することができません。  主イエスが「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と、命じられたにもかかわらず、この癒された人は、45節以下に記されているように「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た」という状態でした。 4 自分の願いがつねに優先する信仰  さて、ここで、私たちの主イエスに対する信仰について考えてみたいと思います。私たちが持っている主イエスに対する姿勢と、その当時、主イエスの噂を聞いて押しかけた群衆の姿勢と比べてみますと、どうでしょうか。主イエスが語られ、生涯をかけて私たちに示された、私たちと神との関係は、主イエスの周りに集まってくる群衆とは違うと、はっきりと言い切れるでしょうか。  最初に、自分の目的、願いがあり、それを達成するためにだけ一生懸命祈っていることはないでしょうか。たしかに「求めなさい、そうすれば何でも与えられる」「祈りなさい、そうすればどんな願いも聞かれる」と聞いています。しかしその言葉だけを頼りに、「主よ、主よ」と願っていることが、私たちの信仰、祈りのすべてになっていないでしょうか。  神や主イエスは、単に自分の願い事を聞いてくれる対象、届け先に過ぎない。まず「初めに私の願望ありき」、これを聞いてくれるのが、神であり、主イエスだと思っていないでしょうか。今日においても、主イエスのことを呪術師の一人のようにしてしまっていないでしょうか。  主イエスは、ご自分に対する誤解を恐れられました。ご自分の意向に反して受け入れられることを恐れ、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と厳しく注意されました。  主イエスは、誰か。ほんとうに正しくこの方を受け取っているのか。  私たちは、今、もう一度問われているでしょうか。    〔2006年2月11日 顕現後第6主日(B年)〕