神との契約
2006年03月05日
創世記9:8〜17
今日は、旧約聖書から学びたいと思います。
先ほど読んでいただきました今日の「旧約聖書」の個所は、創世記の「ノアの箱舟物語」の最後の部分です。ノアの箱舟物語は、創世記6:9から始まっている長いお話です。これは、伝説とか神話と呼ばれる部分で、歴史的に実際にあった話ではありません。
ノアの箱舟の物語は、ご存じの人が多いと思いますが、初めての方もおられますので、簡単に紹介します。
神は、この世を造り、人間を造られました。ところがこの地上に、人間どもが悪を増やし、いつも悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、神は、地上に人を造ったことを後悔し、非常に心を痛められました。神は言いました。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も、這うものも、空の鳥も、わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
しかし、ここにノアという人がいました。ノアは主の好意を得ていました。その時代にあって、ノアは神に従う、汚れのない、正しい人でした。ノアは神と共に歩んでいる人でした。ノアには、セム、ハム、ヤフェトという3人の息子いました。
ある時、神は、ノアに命じました。木で大きな箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさいと言い、3階建ての大きな大きな箱船を造らせました。そして、その箱舟ができあがると、すべての動物、鳥、家畜、地に這うもの、それぞれ雄雌一つがいずつ、さらに息子とその家族たちも、その箱舟に乗り込ませました。その全部のが舟に乗り込んで7日目に、雨が降り出し、40日40夜、雨が降り続き、洪水が起こり、地上に水がみなぎり、地上のすべての人間ども、生き物は、家畜も鳥も地を這うものも死んでしまいました。
ノアたちが乗った箱舟は、150日間水の上を漂っていました。150日経って、ノアは、箱舟の窓を開けて、鳩を放すと、鳩はオリーブの葉をくわえて帰ってきて、乾いた地のあることを知らせました。すっかり地上の水が乾いた時、ノアとその家族、すべての動物たちは舟から出ました。
そこで、神は「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。わたしは、このように生き物をことごとく打つことは、 二度とすまい」と言い、ノアと息子たちを祝福しました。
今日の旧約聖書の言葉は、この後に続いて記されている言葉です。
この8節から17節の間に、「契約」という言葉が8回も出てきます。大洪水の後に、太陽の光に照らされて、天と地を結ぶ架け橋のように、くっきりと美しい虹が見えます。この虹を指して、「これは、神とこの世との間に立てた契約のしるしである」と言われました。
今日は、このところから、神と私たちの「契約」ということについて考えてみたいと思います。
契約とは、約束をすることです。私たちはも、人と人との間で、いろいろな契約を交わしたり約束をしたりいたします。売買契約、賃貸借契約、雇用契約、委任契約など法律的な契約から、時間を決めて待ち合わせの約束をするとか、一緒にどこかへ出かける約束をするとか、生活の中で、人間関係の中で、私たちはさまざまな約束を交わして生きています。また、この契約や約束も上下の関係でする契約とか、対等の立場で結ぶ契約とか、いろいろな形があります。
聖書では、神と私たち人間との間は、私たちが人と人との間で、契約や約束を結ぶのと同じように、契約関係、約束の関係にあると言います。
私たちが神との関係を考える時、果たして契約とか約束の関係を強く意識したことがあるでしょうか。さらに日本の古来の宗教、すなわち神道や仏教を考えてみますと、契約とか約束を教えの中に持っている宗教はあるでしょうか。よく日本人は、契約思想がないとか、契約観念が薄いとか言われるのですが、歴史的にみてその背景に違いがあるのかもしれません。
聖書では、「契約」は、神と人の関係を知る上で、忘れてはならない大事な言葉です。
第1に、神とアブラハムの間で結ばれた契約があります。
アブラハムは、イスラエル民族の父、父祖と言われます。一族の長であった族長アブラハムに、神は嗣ぐべき土地を与える契約(創世記15:18)を結びました。また、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」
「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる」(創世記17:1〜8)と、子孫の繁栄が約束され、わたしはあなたがたの神となると約束され、一方、その契約の見返りに割礼を受けることを契約のしるしとしました。
第2に、神がモーセとの間で交わされた契約があります。これはその後のユダヤ民族の信仰の中心になる契約でした。エジプトからイスラエル民族を率いて脱出したモーセは、苦難の中でシナイの荒れ野に導かれ、シナイ山で十戒が授けられ、契約の書が与えられました。モーセは、イスラエルの70人の長老と共に山に登り、そこでイスラエルの12部族は神と契約を結びました(出エジプト24章)。
「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。』」(24:3〜8)
このようにシナイ山でモーセが与えられた契約をシナイ契約と呼ばれています。
ノアの契約には虹が、アブラハムの契約には割礼が、そして、モーセの契約には律法を守ることが、しるしとして、契約の条件として与えられました。
このように、神は、イスラエル民族と契約を立て、人々もこれを守ることを誓います。ところが、いつも人間の側が、その契約を破り、神の罰を受け、悔い改め、また新しい契約が与えられと、これを繰り返しています。旧約聖書とは、実にイスラエル民族の契約を破り続けた民族の歴史であり、神が恵みとして契約を与え、そして、約束を守れ、この契約にもう一度立ち帰れと呼びかけ続ける神のあわれみといつくしみの歴史が述べられているものということができます。
さて、新約聖書では、どうでしょうか。主イエスは契約についてどのように語られたでしょうか。
預言者エレミヤは、「新しい契約を結ぶ日が来る」と預言しました(エレミヤ31:31)。「この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と神は言われると預言しました。(31:32,33)
ここで、主イエスの最後の晩餐の時の言葉を思い出していただきたいのです。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。(�汽灰螢鵐�11:23〜25)
古いイスラエルの民は、神との契約を破りました。ノア、アブラハム、モーセ、ダビデなど、彼らを通して立てられた契約は、破棄されてしまいました。無効になってしまいました。そして、神が遣わされた独り子によって新しい契約が立てられたのです。天にかけられた虹をしるしとしたように、割礼や律法を契約のしるしとしたように、神が、愛する独り子が流す血をしるしとして、あなたがたに「新しい契約」を与えると言われます。新しい契約が立てられたのです。その契約は、対等の契約ではありません。神の方から与えられる一方的な恵みとして、この契約が結ばれたのです。
私は、いつ、そんな契約を神さまと結びましたか。そんな約束をしましたか。そんな契約を受け入れた覚えはありませんと言うのでしょうか。
私たちは、洗礼を受ける時、神と人々の前で誓約しました。そして、父と子と聖霊なる神を信じますと、信仰の告白をしました。また、堅信式を受けた時には、再誓約をしました。
私は、あなた以外の何ものも神としません。生涯、あなたに従い、あなたに仕えて生きますと、きっぱりと約束したのです。神の契約を受け入れたのです。
そして、今、私たちが神との契約関係において、求められるのは、誠実に、誠心誠意、その約束を守ることにあります。私たち人間同士で、どんなに立派な約束を交わしても、そこに、互いに約束を守るという信頼がなければ、その約束は成り立ちません。神さまへの私たちは信頼、誠意とは、それは別の言葉で言いかえると、私たちの信仰です。
聖餐式を続けます。聖餐に与る時、主が私たちに与えてくださった「新しい契約」を確認する時であり、神への信頼を強める時でもあります。感謝と賛美の祭りをささげましょう。
〔2006年3月5日 大斎節第1主日(B年)説教 聖アグネス教会〕