御子をさえ惜しまず死に渡された方
2006年03月12日
御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創世記22:12)
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。(ローマ8:32,33)
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。(マルコ8:31〜35)
1 3つの聖書を読む。
初代教会とか原始教会と言われる生まれたばかりのキリスト教の教会では、どのような礼拝が行われていたのでしょうか。
西暦155年頃に書かれたといわれる殉教者ユスティノスの「第1護教論」という書物には、当時のクリスチャンが集まって礼拝をしていた様子が書き記されています。
それによりますと、「日曜と呼ばれる日に、町や村に住む人々の集会があり、そこで時間のゆるす限り使徒の回想録や預言者の書いたものが読まれ、それが終わると司会者が語り、これらの立派な模範にならうように戒め、かつ勧めた」と書き残されています。その後、パンとぶどう酒と水が持って来られ、今日の聖餐式のような形に移っていった様子が紹介されています。
まだ、礼拝の形式が定まっていない時代から、だんだんと一つの形ができあがっていきました。
「預言者が書いたものが読まれ」というのは、私たちが手にする旧約聖書でありましたし、「使徒の回想録」というのは、使徒書や福音書のことを言っています。
今日、主日の聖餐式において、旧約聖書が、そして使徒書、福音書として、2個所の新約聖書が読まれていますが、この習慣は、初代教会の時代から続いています。
2 今日の日課がらキリスト教の救いの真髄を知る。
前置きが少し長くなりましたが、言いたいことがあるのです。
それは、この礼拝の中で読まれる、3つの聖書の個所は、どのような関係にあるにかということです。
それは、旧約聖書と、新約聖書、いわゆる使徒書と福音書が、深く関わっている個所が選ばれている場合もあれば、全く関係のない個所が選ばれている場合もあります。
そのような思いをもって、今日の聖書日課を、3つの聖書の個所を繰り返し読んでみますと、非常に深い関連がることに気づきます。
今日の、この3つの聖書の個所の意味がほんとうに理解されると、キリスト教がわかる、キリスト教の救いの真髄がわかると言い得ると思います。
まず、第1に、今日の旧約聖書ですが、アブラハムが一人息子のイサクを神にささげようとしたという物語です。
アブラハムは、紀元前2千年ごろの人物で、カルデヤのウルを出て、ハランに住み、さらに南に下って、パレスチナに住んだ、遊牧の民、一族を率いた族長でありました。この時代に得た信仰が、イスラエルの民の信仰の基礎となったと言われます。従ってこのアブラハムは「信仰の父」と言われています。
アブラハムには、サライ(のちにサラと改名)という妻がいました。神がアブラハムに子孫の繁栄を約束しましたが、このサラにはなかなか子どもが産まれませんでした。いろいろな事件があったのですが、アブラハムが百歳の時、サラに子どもが産まれることが知らされ、男の子が生まれました。この子はイサクと名づけられました。
一族にとって、子孫が繁栄することが何よりも重大であった時代に、年老いてできた一人息子が与えられて、どれほど大きな喜びに満たされたことでしょう。
このイサクが少年になった頃に、神はアブラハムに命じました。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、そしてイサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
アブラハムは、ろばに薪を積み、二人の若者とイサクを連れて、モリヤの山に登りました。神に命じられた所に祭壇を築き、その上に薪を置き、息子イサクを縛って、祭壇の薪の上に置きました。羊や山羊を犠牲としてささげる時のように、アブラハムは刃物を取り、息子を屠ろうとしました。父アブラハムが、年老いて授かった一人息子の命を、今、まさにささげようとするとき、
天から声があって、
「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」と言われました。
神の命令に従って、最も愛する独り子の命をもささげようとしたアブラハムの信仰が試みられ、神への忠誠、服従の心が明らかにされました。そのゆえに神はアブラハムを祝福し、子孫の繁栄を約束されました。聖書の文面には出ていませんが、この時、アブラハムはどれほど悩み、苦しみ、心の中で葛藤したか、そのことが解らなければ、アブラハムの信仰を理解することができません。このようにイスラエルの民に伝わる神に犠牲をささげるという宗教的行為を通して、神の御心に従うことの厳しさが表されました。
次に、使徒書に目を向けてみたいと思います。
パウロは、ローマの教会に人々に書き送った手紙の中に、次のように述べました。
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。」
(ローマ8:32,33)
アブラハムは、祭壇の上に、薪の上に、息子イサクを置き、今、まさにその命をささげようとしました。神の命令に従い、神への服従を証明してみせようとしました。しかし、神は、「待った。お前の信仰がどんなものかわかった」と言い、代わりの山羊を与えて、実際には、ヤコブの命を取ることを許しませんでした。イサクは死なずにすみました。
しかし、神は、そうではありませんでした。神は、その御子を、その命さえ惜しまず、死に渡されました。神は、愛する独り子を、この世に与え、神でありながら私たちと変わらない人間の肉体を取らせ、人々に神のみ心のあるところを示されました。
神の子は、人の間でこづかれ、打たれ、鞭打たれ、唾を吐きかけられ、これ以上ない痛みと苦しみと侮辱を受けて、十字架に架けられ、殺されてしまいました。
神の側から言えば、愛する御子、その独り子を死に渡してしまわれたのです。そのことによって、私たちに対する神の愛を証明してみせられたのです。アブラハムの信仰が神によって受け取られたように、神の愛が私たちに明らかにされたのです。
御子と一緒にすべてのものを私たちに与えて下さったのです。羊を取り囲む者の罪を負って祭壇の上の犠牲とされたように、イエスはすべての者の罪を負って、十字架の上に唯一絶対の犠牲とされたのです。神は、このことによって、人を罪から解放し、義しい者としてくださいました。
3 神のことを思わず、人間のことを思っている。
今日の福音書に、目を移したいと思います。
主イエスは、ある時、弟子たちに対して、突然、ご自分が苦難を受け、死ぬであろうということを予告され、そして3日の後に復活することになっているとお告げになりました。主イエスは、同じ予告を3回なさっているのですが、これに対して、弟子たちはどのようにこれを聞き、行動したでしょうか。
ペトロは、イエスを脇にお連れして、主イエスを諫めて言いました。
マタイ福音書によると、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言ったとあります。
縁起でもありません。そんなことはあってはなりません。滅多なことは言わないでください。それは、ペトロとはじめ弟子たちの当然の思いでした。しかしそれは主イエスの心の内を全然理解していない言葉でありました。神の御心を知ろうとしない者の思い、心でした。弟子たちは何も解っていませんでした。
主イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
神がこれからなさろうとすること、神の独り子、最も愛する子、アブラハムがイサクをささげようとしたこと以上に、苛酷な葛藤、苦しみと痛み、そこまでして人を愛し、罪からの解放を証明しようとしておられる、そのみ心がわかっていない。次元の低い発想を哀れみ、叱っておられます。
私たちはどうでしょうか。ほんとうの神の御心を、きちんと受け取っているのでしょうか。ピントはずれの信仰を、キリスト教の信仰と思っていないでしょうか。自分の頭の中にでっち上げたイメージだけで、それがキリスト教だと思い、満足してしまっていないでしょうか。
私たちをふり返って、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われていないでしょうか。
4 では、私たちはどうしたらいいのか。
それでは、私たちはどうすればいいのですか。どうすれば、ほんとうの信仰にいたるのでしょうか。
主イエスは、その後群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
第1、主イエスに従いたい者かどうか。
第2、自分を捨てなさい。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わた しのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
第3、自分の十字架を背負いなさい。
第4、主イエスに従いなさい。
〔2006年3月12日 大斎節第2主日(B年) 説教〕