一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、

2006年04月04日
ヨハネ福音書12:20〜26  過越の祭りには、大勢のユダヤ人がエルサレムに上ってきました。各地に散らされたユダヤ人は、この祭りの1週間の間に、律法に定められた供え物や、羊や山羊などの犠牲を持って来て、神殿にささげました。その中には、ギリシャ人もいました。その他の国の人たちもいたことでしょう。ユダヤの人たちが持つ宗教に好意を持ち、割礼を受けてユダヤ教徒になった人たちがいました。  何人かのギリシャ人が、まずフィリポの所に来て、  「お願いです。主イエスにお目にかかりたいのです」 と頼みました。  フィリポはさらにアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、主イエスにそのことを伝えました。主イエスはアンデレとフィリポに語られました。主イエスはギリシャ人とは話しておられません。イエスはこのようにお答えになったとありますから、彼らにこのように伝えなさいと言われたのでしょうか。  「人の子が栄光を受ける時が来た。」  これは、主イエスの宣言の言葉でした。主イエスは、「わたしの時はまだ来ていない」と言い続けてこられました。真の栄光は神のみにあります。主イエスが栄光を受けるということは、主イエスご自身が何者であるかがはっきり表される時、神が神となられる時、その時が来たと宣言されます。  そして、その具体的な出来事として、十字架と復活の時、この時にすべてが明らかにされるということを宣言されました。  そして、ここで3つのことが語られました。  第1に、「たとえ」でお話になりました。  「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」  少しでも種を蒔いたり、花や農作物を作ったことのある人にはすぐにわかります。種はそのまま置いておくと、何年経っても種のままです。しかし、時が来て、地面に蒔かれると、根が出て、芽が出てきます。小さな一粒の種も、大きくなると、何十倍も何百倍もの実をみのらせます。しかし、その時には、最初の種は朽ちて、腐って、影も形もなくなっています。 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」  それは、主イエスの生涯、主イエスの死にざま、主イエスに死と復活が語られています。  神の独り子が、この世に人間の姿を取って来られました。神でありながら人となられたイエス・キリストです。この方は、弟子たちや多くの人たちにさまざまなことを教え、父なる神を指さしました。しかし、最終的な目的は、十字架にかかり死ぬことでありました。まさに、一粒の麦、一粒の種は、地に落ち、時が来て実をみのらせました。キリストが死ぬことによって、すべての人々に救いが与えられたのです。この方を受け入れた人々に、罪からの解放と希望を与えました。この方の死によって生かされた人々のことは、二千年の歴史が物語っています。世界中に広がるキリスト者の喜びの声は、多くの実を結んだ、いや、今も新しい実がみのっているのを見ることができます。 第2に、大きな逆説的論法で語られました。 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」  「逆説的」というのは、誰でもが正しい(真理)だと思って受け入れている、当然だと思っている説に反対しているようであるが、よく考えよく吟味してみるとこちらの方が正しい(真理)という説のことを言います。たとえば「急がば回れ」とか「負けるが勝ち」というようなことをよく言います。  誰でも自分の命はいちばん大切なものです。誰でもみんな自分が幸せになりたいと思って頑張っています。将来に幸せがあると思うから今の辛いことを辛抱したり、大変な努力を重ねることができます。誰よりも多く、楽しくなりたい、喜びに満たされたい、感動したい、楽をしたい、美味しいものを食べたい、きれいな服を身につけたいと思っています。さまざまな欲望や野心を満足させたいというのは、ひたすら自分を愛している姿がそこにあります。しかし、ただその満足のためにだけ突っ走っていると、その裏側に何とも言えない空しさが漂ってくるののも事実です。そこには「永遠の生命」はありません。  自分を喜ばせることにだけ「生きがい」とか「生きる意味」を探しても、そこに生きがいを見つけることはできません。反対に、自分以外のもののために、一生懸命お世話をしている時、人のために走り回っている時、身を粉にし、我が身をすり減らしている時、ふと気がつくと、何とも言えない「生きがい」を感じていることがあります。  主イエスが語られる逆説はまさに、そのことを指しておられます。  「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)と教えられました。愛する喜び、愛される喜びを得たいと努めています。ところが、その得たいと願っている自分、その命を捨てることがなければ、ほんとうの愛は得られないと言われるのです。 ほんとうの愛は、愛する喜びは、愛する人のために命を捨てることによって得られます。私たちはどれほど人のために死ぬことができるでしょうか。    第3は、「命令」としてお与えになりました。  「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」  「仕える」とは、主人と僕の関係で、僕が主人に仕える姿を言います。「わたしに従え」は、わたしについて来なさい、わたしにならいなさいということを意味します。  マルコ10:44、45で、主イエスは「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と言われました。  主イエスご自身が、「仕える方」であったように、仕える人になりなさい。同じように仕えなさいと教えられます。  ある人が、仕える、奉仕するということは、「もてなす」ことだと言いました。私はそうではないと思います。「もてなす心」というのは、主人が客にご馳走する、客人に喜んでもらうようにふるまうということです。そこには、主人も客も一緒にご馳走を食べているような光景が思い浮かびます。  仕えるは、食事の給仕をする人の心です。僕が、主人やお客さんのために、食事をしないでそばに立って給仕に徹する、お世話をする、僕の姿です。目下の人が目上の人のお世話をするという関係にあり、単にもとなすというのとは違います。  教会においてもさまざまな奉仕の役割があり、働きの場があります。礼拝の時のサーバー、オーガニスト、聖書朗読をする人、受付係、献金を集める人、日曜学校の先生、聖卓の準備、聖餐式の片付けをする人、毎週教会のお掃除をしてくださる方々、お昼の食事の準備や片付けをしてくださる方々、教会委員、青年会や婦人会の係など、たくさんの仕事や役割があります。黙々とその務めを果たしてくださっています。ほんとうに頭が下がります。それは、それぞれがその務めを通して「主イエスに仕えている」姿であり、「主イエスに仕える」というしっかりとした動機や気持ち、さらに信仰に裏付けられていなければ、ただしんどい仕事を押しつけられている、当番だからしているにすぎないということになってしまいます。  「そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」  主イエスは、ギリシャ人に頼まれてやって来たフィリポとアンデレにこのようにお答えになりました。ユダヤ人を介して、異邦人に、最も大事な、キリスト教の真髄ともいうべき教えを語られました。 〔2006年4月2日 大斎節第5主日(B年)説教〕