バラバは救われたか?

2006年04月09日
マルコ福音書15:6〜15  今日は、「復活前主日」です。次の日曜日には復活日(イースター)を迎えます。この1週間は、主イエスがユダヤ教の本山ともいうべき神殿のあるエルサレムに入り、ファリサイ派や律法学者たちと論争を重ね、弟子たちと最後の晩餐をし、ゲッセマネの園で捕らえられ、裁判にかけられ、鞭打たれ、侮辱を受け、十字架を担いでゴルゴタの丘に連れて行かれ、十字架につけられ、苦しみの中に息を引き取られた、主イエスの最後を記念する時です。  今、福音書の長い記事を読みましたが、この主イエスの御受難の物語は、何回読んでも、心が引き締まる思いがしますし、心も肉体も引き裂かれるような苦痛、苦悩にもだえる主イエスを思うとき涙が出そうになります。  この受難物語には、主イエスを囲んで、大勢の人々が登場します。主イエスを訴えるユダヤの指導者たち、ファリサイ派、律法学者、大祭司、祭司長、祭司たち、サドカイ派、長老たちや議員たち、祭りのためにやってきた群衆や商人たち。ローマの総督ポンテオ・ピラト、その妻もいます。ローマの兵隊の隊長や兵士たち、そして、遠巻きにして、主イエスの母マリア、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ、その他の女の人たち、そして、恐る恐る遠巻きにして、主イエスの弟子たちがいます。   野次馬のような人たちもいたでしょうし、悲しみと恐怖に打ちひしがれ、身もだえしながら見つめていた人たちもいました。  さて、この主イエスが、ローマの総督やユダヤの王の所へ引いていかれ、夜通し引き回され、ゴルゴタの丘にいたるまで、大勢の人々がぞろぞろとついて歩いていました。この人の群れの中に、もし私たちがいたとすれば何処にいるでしょうか。どのような立場で、主イエスを見守っているでしょうか。  よく質問を受けるのですが、今から約2千年昔、あのエルサレムの城壁の外、ゴルゴタの丘で、イエスという人が、十字架に架けられた、そして死んだということが、なぜ、2千年後今の時代に生きる私たちの「救い」になるのですかと。一人の人の死が、なぜすべての時代、人類の救いになるのですかと。主イエスの死が、あの十字架が、いったい私と何のかかわりがあるのですかと、尋ねられます。  主イエスの受難物語に登場する一人の人物がいます。それはバラバという人です。この人を通して、この問いについて考えてみたいと思います。  バラバとはどんな人だったのでしょうか。マルコ福音書には、「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた」とあります。マタイ福音書には「バラバ・イエスという評判の囚人がいた」とあります。ルカ福音書には「このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどでで投獄されていた」とあります。そしてヨハネ福音書には「バラバは強盗であった」とあります。  バラバは、暴動、殺人、強盗を働いた評判の囚人で、牢獄に長くつながれていた男でした。いわば、いつ死刑にされても不思議ではない自他共に認める罪人でありました。  ユダヤの週間で、過越の祭りには、誰か一人を赦してやる大赦の習慣がありました。ローマの総督は、主イエスを尋問しましたが、どんあ罪も認めることができませんでしたので、ナザレのイエスという男を釈放しようとしました。そこで、集まった群衆に、ピラトは、「あのユダヤ人の王と言っているイエスを釈放してほしいのか」と尋ねました。ところが祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動しました。ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言いました。群衆は「十字架につけろ。」と叫びました。「いったいこのイエスという男はどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てました。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバの方を釈放する決定を下しました。  突然、釈放されたバラバは、その後、どうなったのでしょうか。  主イエスが十字架に磔にされることによって、確実に救われた人がいるとしたら、それはこのバラバだということができます。  誰が見ても極悪非道な生き方をして、殺人や強盗を繰り替えし、死刑にされるのも当然、本人も処刑される日はいつかと、人を殺す残虐さの反面、自分の死を恐れながら、手枷足枷をつけられ、地下の牢獄で、その日の来るのを待っていたに違いありません。  ところが、突然、牢番や役人がやってきて、「お前は釈放だ、すぐに出て行け」と言って、真っ暗な牢獄から、明るい日の光まぶしい屋外に放り出されました。びっくりしました。何が何だかわかりません。半信半疑で街に出たに違いありません。彼は自由の身になりました。解放されたのです。なぜそうなったのかわからないままに、まさに死んでいた者が生き返った「救われた」瞬間であったに違いありません。  ここに一冊の文庫本があります。スエーデンの文学の巨匠ペール・ラーゲルクヴィストが1950年に書いた「バラバ」という小説です。(岩波文庫赤757-1、1974年) ラーゲルクヴィストは、この作品によって1951年にノーベル文学賞を受けました。  この作品で、この著者は、バラバのその後の生涯を描くことによって、現代の私たちの姿を、そして、ほんとうの救いとは何かを示そうとしています。  少しだけそのあらすじを紹介したいと思います。  バラバは、何にも意味がわからないままに町に出ると、人々が一つの方向に向かって走っていくのに出会います。その人だかりの中に、一人の男が十字架を担いで倒れながら歩かされているのを見ます。他の群衆と一緒についていくと、ゴルゴタの丘という死刑場につき、そこで、3本の十字架が立てられ、3人の男がはりつけになり、ぶらさがっていました。毒づいている両側の男たちには見覚えがあります。しかし、バラバは、真ん中にぶら下がっている一番弱々しくぶざまな姿の男のことが気になってしかたがありません。隠れるようにして遠くから眺めています。ついにお墓に運ばれる後のついて行って、みんなが立ち去ったあと、エルサレムの街に帰りました。  自由の身になって初めて酒場に入り、隅の方に座っていると、昨日から今日にかけて起こった出来事を、酒場の連中がわいわいと話し合っています。そこで、あの十字架につけられたいた一番ぶざまな男について噂を聞きました。自分の代わりに十字架につけられたのだということも知りました。それ以来、あの男のことが気になって仕方がない、何も手につかない。昔の仲間とも一緒になれない。そんな毎日を過ごします。  その後、昔の仲間のところに戻るのですが、事件に巻き込まれ、さらに、鉱山で働く奴隷にされてしまいます。地下の暗いところで、2人ずつ鎖でつながれて、朝から晩までむち打たれ、働かされます。生きながら地獄を見る生き方をさせられました。その時に鎖でつながれ相棒にされたのは、アルメニア人の奴隷サハクという男でした。否応なく24時間一緒にいなければなりません。働かされている時も、寝ている時も、いつも一緒のこの男から、あのゴルゴタの丘で十字架につけられていた男のことを聞きました。サハクは、その男のことをイエスだと言い、キリストと言い、神の子だと言いました。サハクはキリスト信者だと言い、バラバも十字架の男を見たと話します。そしてサハクの首にかかっていた奴隷鑑札に彫りつけてあった、同じ記号を自分の鑑札にも彫ってもらいました。それは、「神の奴隷」という意味でした。バラバはサハクから、さまざまな不思議なことを教えてもらい、共に祈ることも教えてもらいました。  バラバとサハクは、さらに農耕奴隷として売られ、さらに製粉小屋で働かされ、ローマ人の総督の家に買い取られていきました。そこでサハクは、キリスト信者であることが知れてしまい、問いつめらます。サハクは、自分は神の奴隷だといい、神を棄てることはできないと言い張り、拷問にかけられた上、十字架に磔にされて処刑されてしまいました。  バラバは、そんな神など信じないと言い逃れて難をさけ、助かりましたが、さらにローマに送られました。  ローマで奴隷として生活している時に夜中に、人が走る物音を聞き、「クリスチャンがローマの街に火をつけた」「クリスチャンが暴動を起こした」と叫ぶ声が聞こえ、ローマの街のあちこちから火の手が上がるのを見ました。バラバは、かつてサハクから、キリストは再び来られる。この世の裁きのために来られると教えられたことを思い出し、あのゴルゴタの男が戻って来たのだ、約束通り人を救うためにもどって来たのだ、世界を滅ぼすために、今こそ力を示すために来たのだと思いこみ、何とかして、あの人の手助けをしなければとばかりに駆け出しました。もう年老いた奴隷バラバでしたが、若い頃盗賊、暴徒の頭だったバラバは敏捷でした。一番近い火事場に飛び込み燃え木を取り、まだ燃えていない家に火をつけてまわりました。  あの無様な格好で十字架にぶら下がっていたあの方のために、何とか役に立ちたいと思い走り回りました。  そのために、火付けの現行犯として捕らえられ、他に捕らえられたクリスチャンと一緒に再び牢に入れられます。クリスチャンたちは、誰一人火をつけていないと言い張りました。しかし、バラバは油倉に火をつけているところを見つけられて捕らえられ、そして、バラバ自身は、自分はクリスチャンだと言い張ってききませんでした。そのためにクリスチャンたちは次々と磔にされて殺されていきました。そして、バラバもいちばん最後に引き出され、十字架の列のいちばん端に、一人、磔にされました。  夕方になり、暗くなって見物人も立ち去ってしまった後、バラバだけが一人生きてぶら下がっていました。死というものをあれほど怖れていたのに、死が近いと感じた今、(自分に代わって死んだあの男のために働いたと思う何ともいえない満足感につつまれていました。)  静に彼は暗闇の中へ話しかけるように言いました。  「おまえさんに委せるよ、おれの魂を。」 そして、彼は息を引き取りました。  これは、ラーゲルクヴィストという作家の創作です。  バラバは、主イエスが身代わりになって、死刑を免れ、解放されました。しかし、それは、ほんとうの救いだったのでしょうか。しかし、彼を待っていたのは、もっともっと大きな苦難でした。  キリストのことを教えられても、これを否定し、反抗し、悶々として過ごし、最後には鎖でサハクにつながれました。このサハクこそ、キリストご自身ではなかったかと思います。  そして、最後に、怖れていた死を、目の前にしながら、すべてを、魂を、あの十字架の上にぶざまにぶら下がったあの方に委ねたのでした。ほんとうの救いとは何か、この作品は多くのことを考えさせてくれます。  十字架を取り巻く多くの人々、それぞれに人生があり、命があり、恐れがあり、不安があり、喜びがあり、悲しみがあり、救われたいと願っています。そして、私たちも、今、十字架を仰いでいます。 〔 2006年4月9日 復活前主日(B年)説教〕