あの方は復活なさって、ここにはおられません。

2006年04月16日
マルコによる福音書16:1−8 イースターおめでとうございます。 主のご復活を感謝し、心から賛美したいと思います。  主イエスが十字架に架かられて、3日目、現在の暦の曜日に当てはめますと、十字架にかけられたのが金曜日、弟子たち、そして、主イエスをしたって従っていた女性たちが悲しみ涙のうちに、主イエスを十字架から降ろし、葬りの準備をしました。  当時、この地方での死者を葬る葬り方は、私たちの習慣とは異なっていました。棺桶とかお棺とかいうものは使わず、防腐、防臭のために香油を塗り、亜麻布にくるんで墓地に納めました。  主イエスが十字架上で息を引き取られた時は、午後のことで、夕方からは安息日に入ってしまいます。多分、応急処置であったために十分な手当ができなったのでしょう。  一週の初めの日、つまり日曜日の朝早く、安息日が明けるのを待ちかねてマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、主イエスのご遺体の手入れをするために香料を買いに行き、日が出るとすぐに、主イエスをお納めしたお墓に行きました。  墓は、岩山をトンネルのようにくりぬいて、その先に広くなった所があり、出窓のようにさらに岩をくり貫いて、そこに遺体を安置してあります。墓の入口には、大きな石を転がしてフタをしています。  女の人たちは、「私たちの力では、とうていあの石はうごかせませんね、誰かあの石を動かしてくれるような人はいるでしょうか」と語り合いながら、お墓へ急ぎました。  お墓について、目を上げると、お墓の入口の大きな石は脇に転がしてありました。その入口から墓穴に入ると、白い長い衣を着た若い人が座っているのが見えました。   この女の人たちはびっくりしました。するとこの白い衣を着た若い人は、言いました。  「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのですか、あの方は復活なさって、ここにはおられません。よく御覧なさい。ここがその方をお納めした場所です。さあ、行って、ペトロや他の弟子たちにこのことを知らせなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」  女の人たちは、ほんとうにびっくりしました。言われたように、主イエスの遺体を安置した所には遺体はなく、空っぽです。女の人たちは、度肝を抜かれ、あわてふためいて、墓を飛び出し、いちもくさんに逃げだしました。多分、頭が真っ白になって、自分が何をしているのかわからない、何を言っているのかわからない、腰を抜かしてしまったというのでしょうか、あわてて逃げ帰りました。  そして、あの墓にいた白い衣を着た若い人から、ペテロや弟子たちに伝えなさいと言われていながら、彼女たちは、誰にも何も言いませんでした。このことが事実だとしたら、現実だとしたら、何が起こったのか想像もつかないことで、ただただ恐ろしく、誰にもこのことを話しませんでした。  これが、主イエスが復活したという出来事、空っぽになっていた墓の第一発見者の最初の光景でした。  いちばん最初に書かれたというマルコ福音書にはこれだけしか書かれていません。  さて、今日、このような事件が起こったとすると、それはどうでしょうか、情報があっという間に飛び交う時代ですから、テレビでも報じられ、新聞にも書き立てられ、携帯電話やメールで、あっという間にこのニュースは世界中に行き渡るでしょう。瞬く間にニュースは伝わるでしょうが、次のニュースがまたどんどん入ってくるために、ゆっくり受け止める時間がなく、あっという間に忘れ去られてしまうのではないでしょうか。  驚きのあまり、腰を抜かして何も言えない状況、ただ恐怖や不安の中でふるえている状況から、信じられない、現実として受け入れられない精神的な状況から、主イエスの復活ということが、受け入れられていく、信仰の問題として、熟成され、培養され、成長していく様子が、聖書の中からうかがい知ることができます。  マルコの福音書は、いちばん最初に書かれた福音書だと言われます。キリストの死後30年ぐらいに書かれたと言われています。そこには、先ほど読んだようにマグダラのマリアと他の女の人たちが、最初に空っぽ墓を見つけて、腰を抜かし、誰にも言えなかったということ、そして、復活した主イエスがマグダラのマリアに現れ、さらに田舎の方へ行こうと歩いている二人の弟子たちに、別の姿で現れ、この二人は、他の弟子たちに伝えたが、彼らは二人の言うことを信じなかったということが書いてあるだけです。  マタイの福音書は、主イエスがなくなった後、50年ぐらい経って書かれたと言われています。ここでは、第一発見者である女性たちは恐れながらも大いに喜び、急いで弟子たちのところに走って行った、その途中で復活のイエスに出会ったということが書かれています。さらに、墓の番をしていたローマの兵士たちが、弟子たちが遺体を盗んで行ったと言えと、ユダヤの指導者たちに買収されたということが記されています。さらによみがえった主イエスが弟子たちの所に現れ、「すべての民をわたしの弟子としなさい」と言って、弟子たちに派遣の命令を出されました。。  ルカの福音書はマタイ福音書とほぼ同じ時期に書かれたものと言われています。ここでは、空っぽの墓の第一発見者である婦人たちは、すぐに弟子たちのところに走って行き、一部始終を話した、そして、ペトロも墓に走って行き空っぽの墓を確認した様子が記されています。さらに、2人の弟子がエマオへ向かう途中、よみがえりの主イエスに出会った出来事、さらに弟子たちがいる所によみがえった主イエスが現れ、焼いた魚を食べ、手足を見せ、亡霊ではないことをお示しになった出来事が記されています。  さらに、ヨハネの福音書は、主イエスがなくなって70年ぐらい後に書かれたものと言われていますが、ペテロともう一人の弟子が走って行って、空っぽの墓を見たこと、マグダラのマリアによみがえった主イエスが現れ、さらに弟子たちのいる所に現れ、疑っていたトマスに現れ、さらに7人の弟子たちのところに現れ、よみがえった主イエスが、パンと魚を取って弟子たちに与えたという出来事、そして、ペトロに現れ、「わたしを愛するか」と3度お尋ねになり、ペテロに「わたしに従いなさい」とお命じになったという出来事が記されています。  このように、福音書が書かれた年代と復活の記事の関係を見ますと、主イエスの復活を知った弟子たちは、同じようにすぐに主のよみがえりを受入れ、信じられたのではなく、長い時間の経過と共に、だんだんと熱を帯び、熱くなっていった様子がうかがえます。  それは、言いかえれば、それぞれの福音記者が属していた教会の信仰であり、年月の経過と共に、集められた聖書資料も少しずつ変化していったということがわかります。  このように、主イエスのよみがえりの信仰が強く受け入れられるようになり、十字架と復活への信仰からふり返って、主イエスの生涯や教えが思い出され、記されていったのではないかと思われます。  主イエスの復活には、これが受け入れられていく背景がありました。 主イエスの誕生に近い後期ユダヤ教にその思想が強く見られ、それは旧約聖書続編に次のように記されています。  マカバイ記7:9「息を引き取る間際に、彼は言った。『邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。』」  マカバイ記7:14「死ぬ間際に彼は言った。『たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなたは、よみがえって再び命を得ることはない。』」 エズラ記(ラテン語)2:16、17「『わたしは、死人をその場所からよみがえらせ、墓から引き上げる。彼らの中に、わたしの名が記されているのを認めたからである。恐れてはいけない、子供たちの母よ、わたしはお前を選んだのだ。』」これは主の言葉。  新約聖書の時代には、サドカイ派の人たちは、死んだ人がよみがえるなんてありえないと言って、復活を否定していました(使徒23:8)。これに対して、ファリサイ派の人たちは、復活があると主張しており、その間では盛んに論争されていたことがわかる。  新約聖書によりますと、主イエスさまが行われた奇跡物語の中にも、ヤイロの娘のよみがえり(マルコ5:22)、ナインのやもめの息子のよみがえり(ルカ7:11〜15)、そしてヨハネ11章に見られるラザロの復活の物語があります。 ベタニアのマルタとマリアの兄弟にラザロがいました。このラザロが病気だという知らせがヨルダン川の向こうにおられた主イエスのところにもたらされました。主イエスは、なお2日間そこにおられ、エルサレムの近くのベタニアに行かれました。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとはかっていた所でしたが、あえてそこに行かれました。ベタニアに着いた時には、すでにラザロは死んで墓に葬られて4日が経っていました。マルタとマリアの姉妹は悲しんでいました。まわりのユダヤ人たちも泣いていました。主イエスは、墓に入り、「ラザロよ、出てきなさい」と大声で叫ぶとラザロは手と足を布で巻かれたままでてきました。ラザロがよみがえったという噂は広まりました。  主イエスによってよみがえったラザロは、その後どうなったのでしょうか。二度と死ぬことのない体になったのでしょうか。その後、ラザロがどのような生き方をして、どのような死に方をしたのかはわかりません。聖書には何も記されていません。やはり、時が来て、寿命がが尽きて、もう一度死んだのであろうと思われます。  同じように「よみがえった」という言葉を使いますが、主イエスのよみがえりと、主イエスによってよみがえらせられたラザロのよみがえりには大きな違いがあります。それは、よみがえった主イエス・キリストは、たびたび信じる者たちの所に現れました。しかし、ラザロは、ラザロの身に奇跡は起こったのですが、最後にはラザロは再び死にました。    神の独り子が人間の姿を取り、人間の死を、死の苦しみを体験されました。そしてよみがえりによって死に打ち克たれました。主イエスのよみがえりは、ラザロのよみがえりとはまったく違うのです。  主イエスは、よみがえりによって、時間と空間を越えて生きておられる神となられたのです。二千年昔、弟子たちに現れたよみがえりの主イエスは、今も、私たちと共におられ、世界中の主を信じる人々と共におられるのです。  空っぽの墓を見たよみがえりの第一発見者の驚きから出発して、信じられない者が信じられるようになっていった人々の感動と喜びが、今、時代の最先端にいる私たちにあらためてもたらされているのです。心からなる感謝と賛美をもって、これに応えましょう。  イースターおめでとうございます。ハレルヤ。   〔 2006年4月16日 復活日(B年)説教 聖アグネス教会 〕