聖 婚 式 説 教

2006年04月22日
今、3個所の聖書が読まれました。最初に旧約聖書から、神は天地を創造し、人を男と女にお造りになったということ、2番目に、使徒書として、「夫たる者よ、妻たる者よ、互いに仕え合いなさい」と、夫婦のあるべき姿についての教えが述べられています。そして、福音書では、「わたしがあなたがた愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と主イエスの言葉が読まれました。  今日は、もう一個所、聖書を朗読します。マルコによる福音書10章6節から9節ですが、主イエスが教えられた言葉として、次のように語られています。  「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」  この言葉は、最もよくキリスト教の結婚観を表している個所なのですが、現在の結婚式の式文の中では読まれていません。それは、この個所が、ファリサイ派の人々がイエスを試そうとして近寄ってきて、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」という質問に対する答えとして、主イエスがお答えになった言葉だからだと思います。結婚式の席で、離縁の話を持ち出すのは、場面設定としてそぐわないから、ここが読まれなくなったではないかと思います。  今日は、そのことをふまえた上で、この聖書の言葉からお二人にお勧めをいたしたいと思います。  ここに主イエスは4つのことを語っておられます。  第1に、「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった」とあります。  クリスチャンとしては、何を今さらと思うかも知れません。しかし、頭の中だけでなく、ほんとうにこのことを知ること、これが実はいちばん難しいことだと思います。  神は、この世を創造されました。そして、私たちも、一人一人、神によって造られた者なのです。私たちは、神によってこの世に生まれさせられ、神によって命が与えられ、神によって生かされ、また、神のよって、命が奪い取られます。その許された時間の中で、一生懸命生きているのです。このことを言い換えると、私たちは神ではないということです。お互いに弱い所、醜い所をいっぱい持ち合わせた人間なのだということです。  ところが、私たちは、いつのまにか、神のようになってしまうのです。神のように人を裁き、神になって人の弱さや醜さを非難してしまいます。自分が神の立場に立って人をみている限り、ほんとうに人を受け入れたり、人を愛することは出来ません。  神は、人を男と女とにお造りになりました。そして、男と女は出会い、愛し合いました。お二人は、互いに自分の意志で、選び、選ばれたのですが、しかしそこにも私たち人間の思いを越えた不思議な大きな力が働いて、今日があることを知らなければなりません。  「愛する」「愛し合う」ということについて、だいじなことを覚えておいていただきたいと思います。愛するという言葉は、世の中にあふれていますし、必ずしもキリスト教やクリスチャンの専売特許ではありません。しかし、クリスチャンとして、この言葉を口にする時には、特別の、独特の意味があります。それは、主イエスによって与えられている意味があるからです。主イエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と命じられました。それでは、どのように愛すればいいのかと言えば、「 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)と言われます。  では、主イエスは、どのような愛し方をなさったのでしょうか。 それは、私たちのために十字架に死んで、死をもって愛を表されました。私たちの身代わりになって死んでくださった犠牲の死によって、神の愛を表されたのです。  私たちにも「友のために自分の命を捨てること」、「これ以上に大きな愛はない」という愛し方が求められています。人を愛することのたびに、私たちが死んでいたらいくつ命があっても足りません。愛するということは、ほんとうに死ぬことです。それは、その愛する人のために、どれほど自分が、自分を変えられるかということだと思います。誰にも、自分の考え、自分のスケジュール、自分の好み、自分の価値観があります。それを大事に守ることは大切なことですが、とことんまでそれを言い張るのでなく、そのどれかを、最も大事な時に、どれほどその愛する人のために変更することができるかということが問われています。そのために自分だけが生きるのではなく、どれほどその人のために死ねるかということです。単に妥協したり、何でも言いなりになることではありません。自分が死んで相手が生きる、そのような愛し方が、友のために死ぬことであり、そこにほんとうの愛があります。しっかりとほんとうの愛を見つめるお二人であっていただきたいと思います。  第2に、「人は父母を離れてその妻と結ばれ、」とあります。  結婚は、ただ、新郎、新婦の二人だけのものではありません。たとえどのような事情があろうとも、今日まで、育てていただいた、それぞれの両親に感謝しなければなりません。またお互いの両親に対して、心から感謝の思いを持っていただきたいと思います。  その上に立って、それぞれ、父母を離れて、妻と結ばれ、夫と結ばれるのです。夫と妻が結ばれるためには、完全に父と母を離れなければ、ほんとうに結ばれることができません。結婚式というのは、新郎、新婦からすると、まさに親離れの瞬間であり、それぞれの親からすると、子離れの瞬間です。新郎、新婦がしっかりと結ばれ、ほんとうの自立、独立を果たし、新しい家庭を築くためには、精神的にも、肉体的にも、経済的にも、しっかりとした「親離れ」がなされなければならないことを、聖書は繰り返し教えています。 第3に、「二人は一体となる」とあります。 「二人は一体となる」、これこそ、結婚の奥義です。新郎、新婦が、それぞれしっかりとした意志を持ち、感性も豊に、互いの人格を尊重し合いながら、その二人が一体となることが、結婚というものです。精神的にも、肉体的にも、経済的にも、あらゆる面で一体でなければなりません。  キリストは教会の頭です。そして教会はキリストの体です。結婚は、キリストとその教会が一体であることのしるしです。たとえどのような状態にあろうとも、つねに自分たち夫婦は一体であり得ているかどうか、つねにふり返りながら、夫婦生活をまっとうしていただきたいと思います。 第4に、「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とあります。  お二人は、この直後に、神の前で、結婚の誓約をいたします。結婚の関係は、約束、契約の上に成り立っているものです。親、兄弟などは、血縁関係です。しかし、夫婦は、他人同士が、結婚しましょうとお互いに約束しあって成立するものです。ですから、どちらかがその契約、約束を破るようなことをしたり、言ったりしますと、夫婦の関係は壊れてしまいます。ちょっとした油断、ちょっとしたわがまま、小さな言葉ひと言がその原因になり得る脆(もろ)い関係です。 しかし、今、お二人が立てようとする誓い、約束は、二人だけのものではありません。この二人の契約には、神が介入しているのです。神の前で約束し、神が二人の間に入って結び合わされるのです、神が間におられることを忘れてはなりません。神が結び合わせてくださったのですから、たとえ、どんな事情があろうとも、人間の都合で、これを離してはなりません。  二人だけ、自分たちだけで、朝から晩まで、向かい合って、にらめっこしていると、お互いに、アラや弱点、気に入らない所ばかりが見えてしまいます。お二人は、クリスチャンなのですから、神さまの方を向いてください。テレビに向かって座っているように、神さまの方を向いて座ってください。そして、時々、お互いの顔をじっと見つめ直すと、きっと良い所がたくさん見えてきて、幸せな夫婦になります。  お二人の上に神さまの祝福が豊かにありますように、心からお祈り祈りいたしたいと思います。おめでとうございます。 〔 2006年4月22日 聖婚式説教 於・聖アグネス教会 〕