見ないのに信じる人は、幸いである。

2006年04月27日
ヨハネ福音書20:19〜29    復活の主イエスが弟子たちの所に現れた様子を、ヨハネ福音書が伝えています。  その日、すなわち週の初めの日の夕方、空っぽの墓が発見された日の夕方、ユダヤ人を恐れた弟子たちは、一軒の家に集まり、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。弟子たちは、自分たちもユダヤの役人やローマの兵士たちに捕らえられるのではないかという不安と恐怖の気持ちがうかがえます。また、救い主、キリストであると信じて、何もかも捨てて従った方が、あっけなく捕らえられ、裁判にかけられ、十字架に架けられ死んでしまった失望と落胆のどん底に陥っている状態が、肩寄せ合って息をひそめている姿がの中に見ることができます。  そこへ、よみがえった主イエスが現れて、弟子たちの真ん中に立たれました。そして、「あなたがたに平和があるように」と言われました。そう言って、さらに手とわき腹とをお見せになりました。手には十字架に釘付けにされた傷跡があります。胸にはローマの兵士に槍で刺された生々しい傷跡がありました。「わたしだ、わたしだ」と言って、しるしを見せ、自分自身を誰であるかを証明しておられます。  弟子たちは、主イエスであることを知り、復活された主イエスを見て喜びました。 主イエスはさらに言われました。「あなたがたに平和があるように」  このあいさつは、弟子たちの動揺を静め、不安と恐怖、失望と落胆の中にいる彼らを慰め、励ます言葉でした。  そして言われました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」これは、弟子たちに対する派遣の命令でした。父である神が主イエスをこの世にお遣わしになったように、あなたがたをこの世に遣わすと言い、宣教のための派遣という新しい使命をお与えになりました。  そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」と。最初の人アダムが土のちりで造られた時、神は鼻に命の息(ルアハッ)を吹き入れました。それによってアダムは生きるものとなりました。「聖霊を受けなさい」この言葉と動作は、弟子たちに対する聖霊の授与であり、聖霊の降臨の出来事でした。  さらに「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言われました。罪を赦す権威を持つ者は、神以外にありません。神のみが持つ権威をキリスト・イエスは弟子たちにお与えになりました。この世に遣わされる弟子たちにとって、罪を赦す権威が授与されることは、何よりも大きな力であり、その目的を表すものでした。  12人の弟子たちの一人でディディモと呼ばれるトマスは、よみがえりの主イエスが弟子たちの所に来られたとき、そこには一緒にいませんでした。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちはよみがえられた主を見た」と言いますと、トマスは「そんなことがあるはずがない。もし、主イエスがよみがえってここに来られたのなら、もしそうだとすると、あの方の手にある釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました。  その日から8日が経って後、弟子たちはまた家の中におり、この時はトマスも一緒にいました。戸にはみな鍵がかけてあったのですが、主イエスが入って来られて、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。  それから、主イエスはトマスの方に向いて言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」  トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。思わず口にしたのは信仰を告白する言葉でした。主イエスはトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」このことから、トマスのことを、懐疑者トマスとか実証主義者トマスと言われています。  現代に住む私たちは、どちらかというと、トマスの考え方に親近感を持ちます。私たちは、科学的な考え方や合理主義的な考え方に慣れていますし、実験や観察の結果、証明されたものを信じるという考え方に慣れています。  科学的な考え方というのは、仮説を立て理論を組み立て、そして、その仮説や理論が正しいということを証明するために実験をしたり、観察や観測をします。実験によって証明されて、はじめてその仮説が法則になり、公式になります。人々に常識として受けいれられていくのです。実験をしたり観察したりしてその結果を確かめるのは、やはり人間の目や耳や触覚や味覚や臭覚など、私たちの五官で受け止め、人間の頭で認識します。しかし、私たち人間の感覚や認識の能力というものは、それほど確かなものなのでしょうか。  ポーランドの天文学者コペルニクスが地動説を提唱しました。1543年、コペルニクスが死んだ後に、「天球の回転」という書物が出されて、地動説天文体系というものが世に知られるようになりました。  17世紀に入って太陽系の正しい姿が明らかにされ、恒星に注目されるようになりました。  一方,太陽系を取り巻く恒星集団(銀河系)というものがあることがわかり、すでにガリレイは銀河が無数の恒星の集りであることを望遠鏡による天体観測で(1609年)で初めての見つけました。1917年アメリカのウィルソン山に完成した2.5m反射望遠鏡を用いた H. シャプリーの研究によって,銀河系はそれまで考えられたよりずっと大きく、太陽は中心よりはるかに端に寄って位置することが明らかにされ、太陽を中心付近に置く銀河系モデルが画期的に改められました。現在では、直径約10万光年の中心部の膨れた薄い円盤状の銀河系は約2000億個の恒星からなっていて、太陽は中心から約3万光年の円盤内にあるとされています。1光年は約9.5兆キロメートルと言われますから、その10万倍、さらのその外に銀河系がいくつもあって‥‥‥と、いくら数字で示されても、観念ではわかりますが、私たちの脳の能力では実感としてなかなか理解できません。  今日では大型光学望遠鏡とか大型電波望遠鏡などによって,地平線の80%前後までが観測されているのだそうです。  知識の受け売りで、ほんとうは、わたしも何もわかっていないのですが、この2,3百年の間に、宇宙天体のことが科学的にいろいろわかってきたことだけはわかります。世界中の専門家によって、今も、日夜研究が続けられているのですが、なるほどと思っても、ある程度から先は想像の域を出ません。私たちには望遠鏡をのぞいて観測できる範囲のところぐらいまでしかわかりません。自分で観測して、自分の目で見て、耳で聴いて確かめたわけでもありません。  科学者が観測したり、理論を展開しているその結果を、聴いて、書いたものを読んで、宇宙とはこんなものだ、宇宙とは大きいのだと、思って理解したようなつもりになっています。また誰かが作ったイラストや映像など想像図を見て、そんなものだと信じているのかも知れません。そして、それが科学的な知識だと思っているのかも知れません。  主イエスがトマスに言われた「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」という言葉が聞こえてくるような気がします。誰かが見たこと、人が見たという証言を聞いて信じていることはあり得ることですし、今もそのようにしています。  主イエスに従っていた婦人たちや弟子たちは、空っぽになった墓を見ました。そして、よみがえって現れた主イエスに出会いました。そして、主イエスのよみがえりを信じて、そのことを伝えた。証ししました。それを聞いて、それを信じた人たちは、そのことをまた次の人に伝えました。約二千年間、このことが繰り返されて、現在にいたっています。  聞いた人がすべて信じたわけではありません。信じない人、信じられない人もいました。信じたくない人もいました。しかし、主イエスのよみがえりについて、これを聞いて信じた人たちは、これを受け入れることができた時、大きな喜びに満たされ、生き生きとした命に生まれ変わることができました。  そして、今日、私たちにも、この証言があらためて聞かされ、聞いて信じる幸いに触れているのです。私たちの中に、よみがえりの主イエスは、今も生きて共にいてくださるのです。     〔2006年4月23日 復活節第2主日(B年) 聖アグネス教会〕