彼らの心の目を開いて

2006年04月30日
ルカによる福音書24:36〜48 使徒言行録4:5〜12  主の復活を記念する日、イースターから、2週間が経ちました。今年は5月24日まで、復活節というシーズンが続きます。主のご復活ということについて、深く思いを寄せ、学ぶときですから、しっかりとそのことを意識して過ごしたいと思います。  新約聖書の4つの福音書では、どれも十字架と復活の出来事については、最も多くページ数を使い、行数を用いています。主イエスの生涯ではこの十字架と復活が最も大事な出来事だったのだということがわかります。そして、この出来事によって弟子たちはどのように変わったか。どのような信仰をもったのかということが記されています。  このキリスト教の救いの教理の最も中心とされるキリストの十字架と復活の意味や、信仰が、その出来事の後で、弟子たちの中ですぐに理解できたのかどうかというと、そうではありません。時間の経過とともに、彼らの心の目が開かれていった様子が分かります。  第1に、よみがえりの主イエスは、生前の主イエスとは顔かたちが違っていたということができます。弟子たちは、毎日、主イエスについて歩いていましたから、よく顔を知っているはずです。亡くなってからそれほど月日が経っているわけではありませんから忘れるはずもありません。しかし、弟子たちは、その方が誰なのか最初はわからなかったと記されたいます。弟子たちは、よみがえりの主イエスに出会ってもその時すぐには、主イエスだとは分かりませんでした。  第2に、よみがえりの主イエスは、ご自分であることを証明してお見せなります。ある時には手と足の釘跡を見せ、胸の槍で突かれた傷を見せ、「わたしだ、わたしだ」と言われました。ある時はパンを裂いて与え、魚を与え、弟子たちと共にした最後の食事のことや、5千人に食べ物を与えたあの奇跡を思い出させようとされました。またあるときは、自分でパンを食べ、焼き魚を食べてお見せになりました。よみがえった主イエスが、「亡霊でないのだ、わたしだ、わたしだ、よみがえったわたしだ」と言って、それを証明するために、魚の焦げを口のまわりにつけて、一生懸命自分のことを分からせようとしておられる姿を想像してみて下さい。  第3に、弟子たちの心が開かれたことが伝えられています。  「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(ルカ24:30-32) 「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。」(ルカ24:45)と記されています。  第4に、復活の主は、弟子たちに使命を与え、この世に派遣されました。さらに、その派遣に先だって、聖霊を与え、権威権能を与え、宣教せよと命じられました。マルコ福音書16:15-18によりますと「イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と言われ、ヨハネ福音書21:17では、よみがえりの主イエスは、ペトロに「わたしの羊を飼いなさい。」「わたしに従いなさい」とお命じになりました。  よみがえりの主イエスは、弟子たちに、ご自身を現し、ご自分のことを証明して見せ、弟子たちの心を開かせ、そして、世界に向かって使徒として派遣されました。それに対して、弟子たちは、どのように応えたのでしょうか。弟子たちの心の目は開かれたのでしょうか。世界に向かって、どのように宣教の使命を果たしたのでしょうか。  ここで、今日の使徒書に目を向けてみたいと思います。  不安、恐怖、絶望のどん底にあった弟子たちは、よみがえった主イエスに出会い、聖霊を受けました。そして、突然、人々の前に姿を現し、語り出したのです。聖霊降臨の出来事とその後のペトロの説教にまわりの人々は驚きました。    今、読まれた使徒言行録の前の個所ですが、その後に起こった一つの事件を記しています。  ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に神殿に上って行きました。すると、そこに生まれながら足の不自由な男が運ばれて来ました。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっている男でした。  この足の不自由な人は、ペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞いました。ペトロはヨハネは、彼をじっと見て、  「わたしたちを見なさい」 と言いました。  その男が、何かもらえると思って二人を見つめていますと、ペトロは言いました。  「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」  そして、右手を取って彼を立ち上がらせました。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行きました。周りにいた人々は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見て、それがいつも神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた男だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚きました。このような事件がありました。  弟子たちは、よみがえりの主イエスから授けられた罪を赦す権威、すなわち人をいやす力をもってこの人をいやすという奇跡を起こしたのです。神殿という大勢の人が集まっている真ん中での出来事でした。  民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来ました。  神殿で、このような事件の後、ペトロとヨハネが、ナザレのイエスに起こった十字架と復活の出来事に着いて説教をし、ユダヤ人を非難したので、神殿守衛長やサドカイ派の人々はこれを放置することができず、彼らを捕らえて牢にいれました。ペテロたちの話を聴いて信じた人は男だけで5千人いたと記されています。  この噂を聞いたユダヤ教の指導者たち、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まりました。また、神殿につかえる大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族もそこに集まりました。  そして、ペトロをはじめ主イエスの弟子たちを真ん中に立たせて尋問しました。  「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と。  すると、ペトロは聖霊に満たされて言いました。  「議員の皆さん、また長老の方々。病人に対する善い行いとその人が何によっていやされたかということについて、今日、わたしたちが取り調べを受けているのであれば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。  この方こそ、   『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、               隅の親石となった石』 なのです。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、ナザレのイエス・キリストの名によるほかは、人間には与えられていないのです。」  パレスチナ地方の建物の多くは、石で作られます。古い家は取り崩し、使えそうな石を選んで、それを用いて家を建てます。もう要らないと判断されて捨てられた石が、石工によって、隅の親石となった、すなわち最も大事なかなめ石となったという詩編118編22節の引用がなされています。ユダヤ人によって十字架につけられ、捨てられた、殺された主イエスが、今、よみがえって、最も大事な隅の親石、教会の基礎、救いの中心となったという意味です。  議員や他の者たちは、ペトロとヨハネのこのような大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かりました。しかし、そこには、現実に足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返すことはできませんでした。  弟子たちは、生まれ変わりました。死んだ状態であった者が生き生きと生きるものになったのです。恐れて、隠れて、息をひそめていた者が、自分の命をも惜しまない、捕らえられても、殺されようとしても恐れない、勇気と忍耐の力が与えられ、人々の前で堂々と、イエス・キリストこそ救い主であると勇敢に証しする人になりました。  最後にルカ福音書24章45節以下をもう一度読みましょう。  「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」  私たちも心の目が開かれなければ、よみがえりの主イエスに出会うことができません。もし、すでに出会っていても、その方が主イエスであることが分かりません。  この復活節の時、私たちの心の目が開かれますよう、祈り求めたいと思います。 〔2006年4月30日 復活節第3主日(B年) 聖アグネス教会〕