<随想> 神 の 国
2006年05月09日
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
これは、マルコの福音書が伝える主イエスの宣教の第一声である。主イエスが弟子たちをはじめ人々に与えた教えの中心は、「神の国が来た」というこのメッセージにあった。神の国という言葉は、天国または天の国と同じ意味で、ヨハネ福音書に多く使われている「永遠の生命」という言葉とも同義語だと言われている。
神の国や天国というと、死んでから行くところ、死後の世界にそういう所があるように思われたり、信じられたりしているが、決してそういう場所があったり、雲の上の楽園が現実にあるというわけではない。
神の国は、聖書が書かれたギリシャ語では、「バシレイア トゥ セウゥ」という言葉が使われている。
元来、ギリシャ語の世俗的な用法では、バシレイアという言葉は「王の支配」「君主制」「王位」「王権」などという機能的な側面からとらえられた意味と、「王国」という地理的な面からとらえられた意味の両方があって、揺れ動いている言葉だという。これがキリスト教会では「王の支配」という意味と「王国」という意味の両方を加味した「キリスト教会用語」となっていった。
ルカの福音書十七章二十節以下にこのような個所がある。
ある時に、ファリサイ派の人々が、主イエスのもとに来て、「神の国はいつ来るのか」と尋ねた。すると、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
神の国は、ここにある、あそこにあるというようなものではない、死んでから行く所というような場所でもない。 もちろん雲の上で、頭の上にサークラインのような輪っかをつけた神さまや羽根が生えた天使が飛び交っているような絵に描いたような場所があるわけでもないと明言しておられる。その上で、「実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言わた。「あなたがたの間」とはどこなのかと、これも解釈がわかれるところである。そこにはイエスを囲んで話を聞いている大勢の人たちがいる。その人と人との間という意味なのか、主イエスを中心にしたグループ、人の和の中にあるのだと考えるのだろうか、または、あなたのがたの心の中にあるのだと言っておられるのか議論のあるところである。
私は、この人だかりの真ん中におられるイエスのいる所、イエスと共にいることが「神の国」だと言われていると思っている。ここだ、ここだ、ここにわたしがいるではないか、わたしと共にいること、わたしにすべてをゆだねることが神の国なのだと、ご自分の鼻の頭を指さしながら叫んでおられる姿が見える。
どんなに強がりを言ってみても、やはり人は自分が死ぬということについて考えるのは恐い。病気になりたくない、痛いのもいや、苦しむのもいや、それはその向こうに「死」というものが現実性をもって迫ってくるから嫌なのである。
「四苦八苦」という言葉は仏教用語であるが、四苦とは、生・老・病・死のこと、これに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を合わせて八苦となる。要するに、このような苦しみから逃れたい、すべての人がそのような状態から救われることを願っている。
私は、「神の国」という言葉を、現在の易しい言葉に言いかえて「ほんとうの幸せ」と置き換えて読んでいる。それは「救い」であり、「取り憑かれたものから解放される」ことであり、私の頭の先から足の先まで、全部キリストが支配する時、ほんとうの幸せの時である。
主イエス・キリストが言われる。 「わたしが来た。わたしが支配する時が来た。ほんとうの幸せが来た。わたしはあなたと共にいる。あなたもわたしと共にいなさい」
(二〇〇六・五・九)