<随想> 愛が支配する神の国
2006年05月11日
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯して
はならない。」
姦通の現場を押さえられた女が、引きずり出され、イエスの前に連れて来られた。
「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と、いきり立った律法学者やファリサイ派の人々はイエスに迫った。イエスは、沈黙を守っていたが、彼らがしつこく問い続けるので、顔を上げて言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
いきり立って両手に石を持ち、今にも石を投げようとしていた群衆は、年長者から、石を地面に落とし、一人一人その場から立ち去って行った。
その広場には、イエスとその姦通を犯した女だけが取り残された。イエスは、静に言った。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が「主よ、だれも」というと、イエスは言いました。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
ファリサイ派の人々や律法学者は、イエスを試し、訴える口実を得るために、この女を引っ張ってきて、イエスに難問を吹きかけた。モーセの律法に従うのか、イエスが日頃説いている「愛しなさい」という教えに従って赦すのか。どちらにも答えにくい問いを投げかけ、二つに一つの答えを迫った。
これに対して、イエスの答えは、そのどちらでもない、反対に第三の問いを投げかけて、相手の呼吸をウッと止まらせてしまった。それは、人の罪を問い、人を告発し、人を罰しようとする裁判官か神の立場に立って、石を投げようとする人たちに、その矢を、一人一人自分の方に向けさせたのである。あなたは神ではない、罪多い人間なのだ、罪人なのだと、自分のほんとうの姿に立ちかえらせたのである。すると、誰一人石を投げられる者はいなくなってしまった。
ファリサイ派の人々や律法学者にとっては、律法、掟の遵守の徹底が彼らのめざす神の国であり、天国であったのである。そのために、幼少の頃から、律法について学び、律法を覚え、律法を守ってきた。それだけではなく、人にも律法を守ることを強要し、守らない者、守れない者を非難し、弾劾してきた。
自分自身のことは棚に上げて、他人の罪を暴くことによって自分を正当化したり、自分を正義の味方のように思いこむ。律法を形骸化し、遵守することを形式化してしまった。イエスは、ファリサイ派、律法学者たちのことを、偽善者だと言ってきびしく非難した。
これに対して、イエスの姿勢は、この女に対するゆるしに終始する。イエスは、本来、罪人を裁き、罪を定めることのできる唯一の人である。しかし、「わたしもあなたを罪に定めない」と言って、この女の罪をゆるし、立ち上がって歩き出させた。人をゆるし、ありのままのの姿でその人を受け入れること、すなわち、人を愛するということにほかならない。正義を振りかざし、人の罪あばき、人を罪に定めることは、多くの場合、人を叩き潰し、立ち上がらせなくする。反対に、愛は人を生かし、人に勇気を与え、人を立ち上がらせる。
神の国、天国とは、神が支配する王国である。その王国は何によって支配されるのか。それは、律法や掟によって支配されるものではない。イエス・キリストのいう「神の国」はキリストが支配する国であり、その支配は愛によって支配される国である。
姦通に現場を取り押さえられたこの女は、人々が立ち去ってしまい、イエスと向かい合って二人だけで残された時、その瞬間、彼女は「神の国」を体験した。この方に従い、この方にすべてをゆだねて生きようと思ったに違いない。この女性は、イエスに出会って生まれ変わったに違いない。私はそのように信じている。
(二〇〇六・五・一一)