主イエスの喜び

2006年06月01日
ヨハネ17:13  主イエスは、ご自分に迫ってくる十字架を目の前にして、長い訣別の説教をされました。ヨハネ福音書14章、15章、16章にわたるお別れの説教をし、さらに17章全体にわたる「最後のお祈り」をされました。  愛する弟子たちと別れるに際して、最も大切なことを語り、そして、神の子として、父である神に残される弟子たちのために、とりなしの祈りをささげておられます。  今、読まれた福音書の個所は、その「最後の祈り」の中の一部です。十字架を前にし、最後の説教をし、最後の祈りをささげておられる主イエスの胸の中は、どのような思いだったのでしょうか。  張り裂けそうな主イエスの胸の中、その時の主イエスの姿を想像しながら、お祈りの中の一節について、考えてみたいと思います。  「13:しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」  「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」と言われる「主イエスの喜び」とは、どんな喜びでしょうか。主イエスは、何を喜んでおられたのでしょうか。  「喜び」というのは、私たちが持つ喜怒哀楽の感情の一つです。 よろこぶこと、うれしく思うこと、また、そのような「気持ち」を言います。さらに喜びの気持ちは、感謝の気持ちを起こさせたり、祝うとか感動するという気持ちにつながります。喜び、感謝、感動は、私たちに、元気を与え、積極的に生きるための大きな原動力になります。  パウロは、テサロニケの教会の信徒に送った手紙の中でこのように言っています。「あなたがたは、ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしに倣う者、主に倣う者となり、すべての信徒の模範になるに至ったのです。」(�汽謄汽蹈縫�1:6)  キリスト者は、ひどい苦しみの中で、すなわち、さまざまな苦難、迫害、貧困の中にあっても、喜ぶことができる者であると言います。 信仰の種が蒔かれ、信仰の芽が出て、それがどんどんと成長して、実をみのらせます。その果実は「喜び」であると言われます。  では、ここで言われる「主イエスの喜び」とはどのような喜びなのでしょうか? 弟子たちや私たちに満ちあふれることを望んでおられる「主イエスの喜び」とはどのような喜びでしょうか?  このことを知るために、聖書の個所をさかのぼって「お別れの説教」の中の主イエスの言葉を思い出しましょう。そこには二重の喜びがあります。  第1に、ヨハネ15:9-11  「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」  父である神が、主イエスを愛されたように、主イエスも弟子たちを愛されました。ですから、弟子たちに対して、私たちに対して、あなたがたも互いに愛し合いなさいと言われます。 「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」  ここに喜びがあります。愛によって結ばれた父と子の心がピタッと一致します。そして、主イエスと弟子たちの関係が愛によって結ばれ、ピタッと一致した時、これこそが主イエスの喜びであり、同じ喜びに満たされることを望んでおられます。  そして、第二に、16:20-22に、  「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」  主イエスは言われます。わたしは、間もなくあなたがたの前からいなくなる。あなたがたは悲しみと絶望と不安に襲われるだろう。しかし、わたしは再びあなたがたと出会う時が来る。その時にはほんとうの喜びに満たされる。それは、ちょうど、女性が子供を産むときには、大変な苦痛を味わうが、子供が生まれた後は、その子供が生まれた喜びのために、その時の苦痛を忘れてしまいます。それほど大きな喜びが来ると言われます。  主イエスの十字架を見送る苦しみを味わいます。しかし、その十字架の後に来る、復活の喜び、聖霊が与えられ、主イエスの真の栄光を見る時がある。その時こそ、あなたがたはほんとうの喜びに満たされることが約束されます。これが第二の喜びです。  このような二重の喜びが、主イエスの喜びであり、弟子たちに満たされるべき喜びなのです。  ずいぶん古い映画ですが、若い頃に観た映画に「クオ・ヴァディス」というのがありました。1896年に出版されたシエンキエビチというポーランドの作家の同名の小説が映画化されたものでした。その映画の最後のシーンが非常に強く私の中に残っています。  主イエスの同じ時代でした。ローマの皇帝にネロという皇帝がいました。西暦54年〜68年、皇帝の地位にあったのですが、晩年、暴君ネロとして有名になった人でした。皇帝として権勢をふるううちに、失政を繰り返し、疑心暗鬼になり、誰も信じられなくなり、信頼していた家臣を殺し、最後には母を殺し、悪政のために、市民の評判は落ちてしまいました。64年、ローマ市内に大火災が起こり、皇帝ネロが放火を命じたという噂が立って人心が険悪化したため、それをもみ消すために、当時、ローマ市民に憎まれていたクリスチャンを捕らえ、処刑しました。ローマ帝国による最初の大迫害だったと言われます。  この時の場面が、ありました。  ローマの大競技場で、興奮する市民の前で、捕らえられたクリスチャンを牢屋から引き出され飢えたライオンと闘わせ、十字架につけ、大勢のクリスチャンが、次々と殺されていきます。ローマ市民はこれを見せ物として見物しています。  その夜のこと、皇帝ネロは、広い宮殿の自室で、歩き回っています。なんとも空しさとさびしさに襲われ、身をよじって苦悩の中に、自分の頭を掻きむしり、のたうち回って苦しんでいます。あらゆるものの上に立ち、権力をふるい、贅沢三昧の生活をし、しかし、裏切りと暗殺、肉親まで殺してしまい、人の心は離れ去り、評判は落ちる。憎しみと空しさと不安と恐怖にさいなまれ続けています。  「俺は、なぜこんなに苦しまねばならんのか」と、自問自答し、そのあげく、昼間に処刑したクリスチャンの姿を見れば、自分よりも苦しみ、恨みと憎しみにゆがんだ顔を見れば、気が晴れるかも知れないと思いつきます。どれほど、神を恨み、イエスという男を恨み、自分の不幸をののしりながら死んだに違いない。その死に顔を見ると、少しは気持ちが晴れるかと期待し、家来に松明を持たせて、深夜の競技場に出かけていきました。競技場の真ん中の広場には、何百という死体が横たわり、放置されています。  ネロは、横たわる死体の顔に松明を近づけ、顔をのぞき込みます。ところが、その死に顔は、どれも静かな穏やかな顔をし、ほほえんでさえいるのです。迫害を受け、殉教したクリスチャンは、キリストと共に復活することを信じ、復活の主イエスに相まみえることを信じて、召されていった人たちでした。肉体は苦しめられ、引きむしられながら、一人一人、そしてすべてが喜びに満ちた顔でした。  これを見たネロは、ますます苦しみます。殺すことを命じた皇帝である自分がこんなに空しく、苦しんでいるのに、殺された彼らがなぜあんな安らかな顔をしているのだと、ますます苦しみます。  元老院にも、軍隊にも見捨てられたネロは、自殺してしまいます。    さて、私たちは、主イエスと同じ喜びを持っているでしょうか? 主イエスが望んでおられるような喜びに満ちあふれているでしょうか?  愛によって結ばれた父と子の心がピタッと一致する喜び、そして、主イエスと私たちの関係が深い愛によって結ばれ、ピタッと一致した時、これこそが主イエスの喜びであり、同じ喜びに満たされることを望んでおられます。   1549年、フランシスコ・ザビエルによって、日本に初めてキリスト教がもたらされました。そして、早速、教会用語や聖書を日本語に訳さなければ宣教することができなかったわけですが、当時の日本の国にあった宗教用語は、神道や仏教の言葉であり、キリスト教の言葉とは意味やニュアンスが違い、ずいぶん苦労したことが伝えられています。今、私たちが使っている「愛」ということば、キリシタン時代、「どちりな きりしたん」に使われている言葉、また、当時のポルトガル語辞典のAmorは、「大切」と訳されていました。当時、日本語では、「愛」は、「感情的、肉体的な愛情」に用いられていて、ときには「不潔な快楽」として用いられていたと言います。そのために精神的な「愛」については、聖書の特別の意味を込めて「御大切」が使われたのだそうです。「万事を超えて、デウス(神)を御大切に思い奉ることと、我が身を思うごとく隣人(ポロシモ)となる人を大切に思うこと、これなり」  「神を愛する」「人を愛する」と言ってもなかなかピンとこないかも知れません。キリシタン時代にもどって、「御大切」と置き換えてみてはどうでしょうか。  何よりもまず、神が大切、主イエスが大切、そして、いちばん身近にいる人が大切。まず神が私たちを大切にしてくださっています。主イエスが私たちを大切にして下さいました。私たちも主イエスを、誰よりも、何者よりも大切にします。その「御大切」がピタッと一つになったとき、そこに喜びがあります。 次の主日には、聖霊降臨日を迎えます。「聖霊による喜び」を新たな気持ちで受け取ります。  私たちが最も御大切とするキリストの肉と血に与りましょう。   (鈴木範久著「聖書の日本語」(岩波書店) P.209〜210 )     〔2006年5月28日 復活節題7主日(昇天後主日) 説教〕