「聖霊を受けなさい。」

2006年06月04日
ヨハネ20:19−23  主イエスが復活された日から数えて、50日目、この日を「聖霊降臨日」と言います。教会の暦では、クリスマス、イースターに次いでだいじな祝日とされています。  今、読まれました今日の使徒書、使徒言行録2章によりますと、この50日目の日に、弟子たちが一同が集まっていると、  「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(2:2-4)  という、異様な光景が描かれています。激しい風が吹くような音、炎のような舌が、そこにいる人たちの一人一人にとどまったというのですから、そこにいた人たちがそのように描写せずにはいられない光景があり、そのような特別の聖霊体験があったということが伝えられています。  この出来事は、弟子たちに大きな変化をもたらしました。弟子たちが行ったこともない国の言葉で語り出しました。これを聞いた人々はみんな驚き、戸惑ったと報告されています。  さらにそれだけに終わらず、ペテロをはじめ弟子たちが、人々の前に立ち上がり、主イエスは、預言者の言葉が実現し、神から遣わされて、この世に来られた方であった。あなたがたは、この方を十字架につけて殺してしまった。しかし、主イエスは復活し、神の右に上げられた。この方こそ、神が、主とし、メシア、救い主とされた方なのだ。わたしたちは、その証人なのだと、叫びました。  主イエスが亡くなったあと、不安、恐怖、絶望のどん底に沈み込んでいた、あの弟子たちが、まったく人が変わったように、勇敢に、力強く、堂々と語り出したのです。  何によって、弟子たちはこのように変わったのでしょうか。それはあの聖霊が彼らの上に降ったからだと、使徒言行録は伝えています。  このことによって、何千人という人たちが、弟子たちの教えを聞いて、洗礼を受け、信者となったと記されています。  このことから、今日、この聖霊の降臨を記念する日は、教会の出発の日、教会の誕生日だとも言われています。  使徒言行録が伝える弟子たちに与えられた「聖霊体験」について、しっかり覚えておかなければなりませんが、一方、聖書の別のところでは、もっと、静かに、弟子たちに聖霊が与えられた様子が記されています。それは、今日の福音書に読まれています。  主イエスが十字架につけられ、3日目の朝、お墓に行ってみると、そこに葬ったはずの主イエスのご遺体がない、空っぽの墓を見たショックが弟子たちを包んでいます。弟子たちは、自分たちもユダヤ人に捕らえられることを恐れて、自分たちのいる家に閉じこもり、戸には鍵をかけて息をひそめていました。  そこへ、復活した主イエスが現れ、彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」とあいさつされました。そして、手とわき腹とをお見せになりました。主イエスの手と足には、十字架に釘付けにされたときの傷跡があり、胸にはローマの兵隊に槍で刺されたときの傷跡があります。弟子たちは、これを見て、よみがえられた主イエスだと気づき、非常に喜びました。イエスは重ねて、「あなたがたに平和があるように」とあいさつされ、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」言われました。  さらに、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」と。  この「息を吹きかけ」という言葉を聞きますと、思い出すことがあります。  「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)  神は、天地をお造りになった時、最後に人をお造りになりました。 この時に、神は土(アダマ)ちりで、人(アダム)を形づくられました。  今から3千年も4千年も昔の人が語り伝えた神話物語ですから、人は死んだら土になる、だから土でできているのだと思ったのでしょうか。肉体とか物質とかいうことばや観念もないじだいですから、土で形づくられたと表現したのだろうと思います。土でつくられた人間のかたち、すなわち人間の形をした物質、肉体の鼻に命の息を吹き入れられました。すると、人(アダム)は、生きる者となりました。  私が知っているヘブライ語、これ一つしか覚えていないのですが、この「息」という言葉は、ルアハッと言います。このルアハッは、息とか、風とか、今の言葉でいえば「空気の動き」をいい、さらに霊、命の息という言葉に用いられています。  土で形づくられたアダムに、その鼻に神の霊、生命が吹き込まれると、生きるものとなった。そして、生きている人から、神の霊が引き上げられると、土にもどってしまうと考えました。  旧約聖書には、「霊」という言葉がよく遣われていますが、新約聖書では、とくに、主イエスの復活の後、聖霊降臨の出来事からあと、「聖霊」という言葉で述べられ、イエス・キリストとの関係から特別の意味を持つものとして描かれています。  私たちは、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神を信じます。  父なる神は、目には見えませんが、お祈りする先におられる方、全知全能の方で、世界を、宇宙を支配しておられる方、生命の源、そして、主イエスが父よと呼びかけ、指さしておられる方、何かわかるような気がします。  神の子である主イエスは、人間の姿を取って、この世に来られた方、十字架に架けられ、死んで復活された方、私たちと同じように、人間の歴史の中に実在された方。私たちは直接お会いしたことはありませんが、いちばん頭の中に思い描きやすい方です。  ところが、聖霊なる神は、神と主イエスから出る目に見えない大きな力というか、形がありませんので、いちばんイメージしにくい神です。「聖霊」は、どのようなものかということを、頭の中で考えることは難しいことです。  旧約聖書の時代の人々は、霊を、息、風、と同じ言葉で表現しました。風は、目に見えません。しかし、台風や暴風、竜巻のように、大音響で吹き荒れ、家も樹木もなぎ倒し、吹き飛ばすような、力を持っています。そうかと思うと、やさしくそよそよと吹き、人の背中をそっと押し出し、また、耳元でささやく息のように、やさしく撫でてくれるものでもあります。旧約聖書の時代の人々は、霊をこのように受け取りました。  そして、主イエスによって、主イエスの十字架と復活によって、救いのみ業が成し遂げられた時、「約束された聖霊」として私たちの救いのために与えられたのです。  主イエスによって与えられた聖霊は、その以前に、与えられていた霊とは違うのです。  聖霊降臨の出来事により与えられた霊は、キリストによって与えられた霊です。復活した主イエスが弟子たちに現れ、「聖霊を受けなさい」と言われて与えられた霊は、キリストの霊なのです。  イエス・キリストによって約束された聖霊(使徒言行録2:33)は、今も、私たちに注がれています。  父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受けました。目に見える水を用い、そこに聖霊が働いて、私たちの罪は洗い清められ、新しい命に生まれ変わったのです。その瞬間に、イエス・キリストが約束された聖霊が注がれたのです。  私たちは聖餐式において、感謝と賛美の祭りを行います。目に見えるパンとぶどう酒は、聖霊の働きによって、キリストの肉と血にされ、私たちがこれをいただくとき、イエス・キリストが約束された聖霊が、私たちのところに注ぎ込まれます。  教会の目的は、人々の罪を赦すことにあります。神と人との関係の断絶から、その関係を回復することであり、イエス・キリストを受け入れることによって、イエス・キリストを信じることによって罪の鎖から解き放たれることにあります。それをさせるのは、聖霊の力であり、聖霊の働きです。弟子たちに聖霊が与えられて、罪を赦す権威が与えられました。  私たちは、「聖霊」を見ることはできません。聖霊を信じる信仰があるところに聖霊の働きを見分ける心の目が与えられます。  私たちの教会が、聖霊に満たされ、主イエスを信じて集う私たちが聖霊の喜びに満たされますように、心から願います。        〔2006年6月4日 聖霊降臨日(B年)〕