三位一体の神を信じる
2006年06月10日
ローマの信徒への手紙8:12−17
教会の暦では、今日は「三位一体主日」という日です。一年間の教会の暦を見ますと、大きく二つに分けることができます。一つは、クリスマスの前、降臨節から始まり、キリストの誕生、キリストの顕現、大斎節、キリストの受難と十字架、復活そして聖霊の降臨というこの世におけるキリストの生涯を記念するシーズンとして定められ、それに相応しい聖書の個所を読んで、イエス・キリストとはどのような方であったかを学びます。
そして、もう一つは、聖霊降臨の後、聖霊降臨後の主日といって、第1主日、第2主日と続き、今年は、24主日、「聖霊降臨後主日」が続きます。この期間は、キリスト教の教え、救いに至る教えの内容を学ぶことができるように、聖書が読まれ、私たちは、そのことを深く心に刻みます。
今日の主日は、「三位一体主日」ですが、この大きく分けられる教会の暦の境目に当たる日で、同時に、「聖霊降臨後第1主日」として、聖霊降臨節の始まりの日でもあります。
この「三位一体主日」という日は、私たちが、神さまとはどのような方か、神さまについて正しく知り、正しく神さまを信じているかを吟味し、あらためて神を信じる信仰の確信をするだいじな日です。
前にもどこかで話をしたことがあるのですが、私が牧師になって、間もないころ、教会に、中年の男の人が尋ねて来ました。そして、クリスチャンになりたいと言いました。あちこちの宗教はたずね歩いて、たいていの宗教はみんな知っている。しかしどの宗教もピンと来ない、今度はキリスト教をやってみようと思う。クリスチャンになろうと思うと言ってきました。
私は、そんな姿勢ではだめだと言って断りましたが、その人は、どこの宗教でも、その宗教に入りたいと言ったら、喜んで迎えてくれる。だけど、先生は断りはった。そのほうがホンモノだと思う。だからやっぱりクリスチャンになりますといって聞きません。
仕方なしに、それでは日曜日の礼拝に来てみなさいというと、次の日曜日から毎週熱心に教会に通って来ました。そればかりではなく、毎週、夜やっている聖書研究会にも欠かさず出席して来られました。
半年ぐらい経った時でした。6、7人の人たちと聖書を読み、いろいろ話し合っている時に、その人は、黙って座っていたのですが、突然、質問してきました。
「先生、わしは、クリスチャンになろうと思って、教会に毎週来て、聖書研究会にも出席して、来てるんですけど、さっぱりわかりませんねん。難しいことばっかり、ごちゃごちゃ言うって、もうちょっと、ずばっと、分かり易う言うてもらえまへんか。」
そこにいる人は、話を中断して、その人の顔を見つめました。私もびっくりしました。
「キリスト教の神さんって、何の神さんだんねん。お伊勢さんの神さんでっか、出雲の神さんでっか、住吉さんの神さんでっか。わしは、たいていの神さんは知ってまんねん。ごちゃごちゃ言わんと、キリスト教の神さんは、どこの神さんと一緒やとひとこと言うてくれたら、ああ、そうでっかちゅうて、すぐにわかりまんねん。はっきり言うておくんなはれ」と、ほんとうに勇気を出して質問したというように語り出しました。
若い、牧師になり立ての私は、その後も、ごたごたと説明したと思うのですが、どうもその人に納得してもらえず、神さまについて説明すればするほどますます難しくなり、その日は終わりました。その人は、その日から、ぱったりと教会に来なくなりました。
一人の求道者をつまずかせてしまった例として、その人のことは、今でも忘れられません。
聖書の中にも「神」という言葉は使われていまし、教会でも「神を信じます」といつも信仰の告白をしています。
しかし、この日本語は、キリスト教が日本に伝えられる以前からあった言葉で、日本人が日本書紀、古事記、万葉集の時代以前から使っていた言葉です。
日本の教会用語は、まず中国に伝えられたキリスト教の影響を受け、日本に来たアメリカやイギリスの宣教師たちが、ずいぶん苦労して日本語化したことが伝えられています。
昔からある日本の民間信仰や仏教などの影響を受けように、混同しないように、いろいろな言葉が考えられました。
日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、「神」をさす言葉、ラテン語のデウスから、大日如来の「大日」と呼んでいました。「大日さまを拝みましょう」と道ばたに立って叫んでいたので、仏教の僧侶たちにも人気があったと言います。さらに「天主」「上帝」「真神(カミ)」というような言葉が使われました。
長い鎖国の後、あらためてキリスト教が伝えられ、1837年、初めて日本語の聖書として翻訳されたギュツラフの「約翰福音之伝」では、英語の God を「ゴクラク、テンノツカサ」と訳しました。さらにその30年後、1873年、アメリカの宣教師、ヘボンとブラウンによって翻訳されたマタイ伝福音書において、現在私たちが使っているような意味をこめて「神」という言葉が使われました。
(この聖アグネス教会の礼拝堂が建てられたのが1898年ですから、この礼拝堂が建てられるたった20年前のことなのです。)
なぜ、長々とこのような話をしたかと言いますと、先ほどの、「キリスト教の神さんは何の神さんですねん」と言った人のことを笑えない問題がその背景にあるからです。
私たちが信じる神は、どのような神でしょうか。
キリスト教の神を信じると言いながら、同じ「神」という言葉を使っている時、何もかも混ざり合った、はっきりしないカミを神としていないでしょうか。
その例をあげますと、私たちがお祈りをする時、神にいろいろなお願いごとをします。お祈りというと、お願いごとばかりをしています。「求めなさい、そうすれば与えられる」「わたしの名によって願う祈りはかならずかなえられる」と主イエスは約束してくださいました。ですから、何をお祈りしてもいいのですが、しかし、その祈りの内容は、祈りの姿勢は、お賽銭箱の賽銭を投げて祈る祈りと少しも変わらないということはないでしょうか。まず、何が何でも聞いてほしいという願いごとが先にあって、神というのは、それを聞いてくれる対象にしかすぎない、神と名がついていれば何でも同じという姿になっていないでしょうか。
私たちは、どのような神さまを信じていますか。
ほかの宗教の神や仏と言われるものとどこが違いますか。
そのことをどのように意識しているでしょうか。
ローマの信徒への手紙8章14節以下をもう一度読みます。
パウロがローマの教会にあてて書いた手紙です。
「14:神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15:あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。16:この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。17:もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」
パウロは言います。
私たちが信じる神は、イエス・キリストが「お父さん」と言って指さした神です。そして、父がその独り子を、私たちのためにこの世に遣わしてくださいました。そのみ子が十字架に死に、よみがえられたことにより、これを信じた私たちを養子にして下さいました。神の実子は、イエス・キリストです。この実の子である主イエスが、「アバ、お父ちゃん」と呼んで、いつもその愛を確認されます。それと同じように、養子とされた私たちも、「アバ、お父ちゃん」と呼ぶことができるようになったのです。私たちも、主イエスと同じように、父の愛を確認することができます。そして、それをさせて下さるのは聖霊です。聖霊が私たちを促し、押し出し、イエス・キリストと結び合わせ、聖霊が、父である神の愛を受けることができるようにしてくださっているのです。
私たちは、神の子とされたのですから、神の相続人です。主イエスと共同の相続人です。ですから、キリストと共に苦しみ、キリストと共に喜ぶのです。そして、キリストと共に栄光を受けるのです。
聖霊がその証人となってくれます。
「キリスト教の神さんって、何の神さんだんねん。お伊勢さんの神さんでっか、出雲の神さんでっか、住吉さんの神さんでっか。どの神さんと一緒ですねん」という質問に、私たちは正しく答えなければなりません。「いいえ、違います。伊勢さんの神さんでも、出雲の神さんでも、住吉の神さんでもありません。私たちが信じる神は、『三位一体の神』です」と。
父である神、その独り子であるイエス・キリスト、そして聖霊である神、三つであって一つである神、この三位一体の神を信じますと、はっきりと告白しなければなりません。そして、私たちは神の霊に導かれて神の子とされたのです。この恵みが体中に満ちています。感謝と喜びに満たされています。
今日は、「三位一体主日」です。私たちの信仰が、きちんと的を射たものでありますように、自分自身を謙虚にふりかえり、自分自身の信仰の状態を検証し、さらに信仰を確信する日です。正しい信仰を持つことができますように、聖霊の導きを祈りましょう。
今日は、いつもより一層、心をこめてニケヤ信経を共に唱えましょう。
参照文献 鈴木範久著「聖書の日本語」(岩波書店)2006年
〔2006年6月11日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(B年)〕