「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」

2006年06月25日
マルコ4:35−41 1 奇跡物語の意味  聖書にはたくさんの「奇跡物語」があります。旧約聖書にもありますし、新約聖書にもあります。  とくに、福音書では、主イエスはさまざまな奇跡を起こしておられます。中風の人を癒し、重い皮膚病の人をいやし、悪霊に取り憑かれた人から悪霊を追い出し、目の見えない人、耳の聞こえない人、手や足の不自由な人が癒された奇跡物語、また、ラザロの復活やヤイロの娘がよみがえったよみがえりの奇跡物語、5千人の人たちに食べ物を与えた奇跡物語、水をぶどう酒に変えられた奇跡、そして、ガリラヤ湖で、水の上を歩かれた出来事、暴風を静められたという奇跡物語、等々、たくさんの奇跡物語が記されています。  現代の科学的な知識や常識からしますと、「そんなこと、信じられない」といい、非科学的な物語として一笑に付されてしまうかもしれません。これに対して、キリスト教の信仰を持つ人たちの側からは、なんとかしてこれを説明し、合理化し、納得させようという努力がなされてきました。  しかし、これらの奇跡物語について、どんなに納得するような説明がついたとしても、聖書、福音書が「主イエスとはこんな方だ」と言おうとしている主イエスと同じ方がそこに浮かび上がってくるかというと、そうではありません。  さらに、聖書が書かれた時代、約2千年昔の人たちと、私たちとでは、自然現象や自然法則についての知識や受け取り方が全然違うということを知らなければなりません。古代の人々には、病気や身体が不自由であるということの原因は、多くの場合、悪霊、汚れた霊の仕業だと思われていましたし、嵐や大雨や高い波は、神の怒りや悪魔の仕業であると考えられていました。したがって、これを癒したり静めたりするのは呪術師や宗教家の仕事でした。  ということは、主イエスの時代には、主イエスだけがこのような奇跡を行っていたのではなく、同じように病人を癒したり、悪霊を追い出しているという人たちが大勢いたのです。  当時の人たちにとっては、今、私たちのように驚いているようなことは特別驚くこともなく、むしろ奇跡は日常的な出来事であったということができます(マタイ12:27)。そうしますと、「主イエスは、神の子であるから、神であるから、何でもできるのだ、奇跡が起こって当たりまえだ」というだけでは、奇跡物語のほんとうの意味は伝わってきません。  そこで、大切なことは、当時の人たちにとっては、主イエスにそのような奇跡をほんとうに行うことができたかのかどうかということではなくて、このナザレのイエスという人が、何の権威によって、何の力によって、奇跡を行うことができたのかということが問題であり、そのほうに、大きな関心があったということなのです。  マルコ11:27以下に、主イエスと弟子たちがエルサレムの神殿の境内を歩いていると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、主イエスに、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」とたずねたという記事があります。  たとえどんなに大きな奇跡、不思議な奇跡を見ても、主イエスが指さしておられる方、隠されている力の源に気がつかなければ、ただ単に人をつまずかせるだけだったということになります。 2 私たちの祈り  さて、前置きが長くなりましたが、今日の福音書、「突風を静めた奇跡」について、学びたいと思います。  ユダヤの各地から、主イエスの噂を聞いておびただしい群衆が、主イエスの所に押し寄せてきました。話を聞きたい、病気を癒してもらいたい人たちが詰めかけ、主イエスは押しつぶされそうになりました。そこで、小舟を用意しなければならないほどでした。(マルコ3:7−9) その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われました。そこで、弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出しました。ほかの舟も一緒であったと記されています。  すると、突然、激しい突風が起こり、舟は波をかぶり、水浸しになるほどでした。小舟でしたから、大きな波に翻弄され、まるで木の葉のように、上がったり下がったり、今にも沈みそうになりました。 ところが、主イエスは艫(船尾)の方で、疲れておられたのか手枕をしてぐっすり眠っておられました。恐怖におののく弟子たちは主イエスを起こして言いました。  「先生、この舟が沈みそうです。わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。  すると、主イエスは起き上がって、風に向かって叱りつけ、湖に向かって、「黙れ。静まれ」と言われました。  そうすると、風はやみ、すっかり静まり、凪になりました。  そして、主イエスは、弟子たちに言われました。  「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」  弟子たちはこの様子を見て、非常に恐れて、  「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言いあったとあります。  これは、荒れ狂う風や波を叱りつけて静まらせたという、自然現象に対する奇跡物語です。弟子たちは、風と波で舟が沈みそうになった時、死ぬかも知れないという恐怖、不安に恐れおののき、叫び声を上げ、主イエスを起こしました。そして、今度は、風がやみ、波が静まった時、主イエスに対して恐れの気持ちを持ちました。それは、恐怖の恐れではなく、敬意をもって見る、「おそれかしこむ」恐れに変わりました。  「風や湖さえも従わせることができるこの方は、いったいどなたなのだろう。」  そのことを感じさせる、考えさせる、そして、信仰の目で主イエスを見直させることに、この奇跡物語のほんとうに言いたいことがあるのだと思います。 3 私たちの不信仰  主イエスは、弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われました。弟子たちの恐怖の様子と不信仰の状態は、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という言葉によく表れています。  弟子たちは、小さな舟の中に、主イエスと一緒にいるのです。主イエスは、弟子たちと共にそこにいて下さるのです。  この弟子たちは、かつて生活の糧である舟も魚を採る網も、肉親さえもそこに置いて、主イエスに従って来た人たちです。すべてを捨てて、主イエスにゆだね、あなたにすべてをお任せしますと言ってついて来た人たちです。  しかし、激しい突風、逆巻く大波、今にも沈みそうな舟、死の恐怖に直面すると、主イエスを信頼することができなくなりました。すべてをゆだね、すべてをお任せするということができなくなりました。  「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という言葉は、私たちの祈りによく似ています。  愛する人が死にそうです。仕事がうまくいきません。人間関係でなぜこんなに悩まねばならないのですか。なぜ、私のすることが失敗ばっかりしてしまうのですか‥‥‥。  一生懸命祈っている姿は、信仰深いものですが、「なぜ、こうなるのですか」「こんなことを放っておかれるのですか」「なぜ、私の思うようにならないのですか」「私はどうなってもいいのですか」と、神をなじり、神に命じ、いつのまにか神を自分の思いに従わせようとするかのようなお祈りをしていることはありませんか。  これに対して、主イエスは「なぜ怖がるのか。まだ信じられないのか」と言われます。 4 この方はどなたなのだろう  神さまが私たちと共にいてくださる、主イエスが共にいてくださるということを、頭の中だけではなく、体中で確認でき、確信することができる、また、私たち自身もいつも神と共にいることができる状態を「救い」と言います。そのことを口に出して言い表すことを信仰を告白すると言います。「私はあなたが好きです」とか「私はあなたを愛しています」とか、恋人同士が愛の告白をするように、神に、主イエスに、「私はあなたを信じます」「あなたに愛されている喜びをこんなに感じています」と、告白し、同時に、神を賛美し、感謝します。  しかし、この告白は、無色透明、無風地帯、波瀾のまったくないところには、ほんとうの告白はありません。ほんとうの告白は生まれてきません。  私たちが、この世で、社会の荒波にもまれ、苦難と苦悩の中にあって、はじめてほんとうの信仰の告白が問われるのです。いろいろな問題に直面していて、はじめて私たちの信仰の真価が問われます。  日頃は「主よ、主よ」と言い、「あなたにお任せします。すべてを委ねます」と言っていても、自分が死ぬか生きるかという瀬戸際に立たされた時、重大な出来事に直面したときに、どれほど真剣にほんとうの信仰の告白ができるでしょうか。その時、神に向かって、どうようなお祈りができるでしょうか。  「信仰を告白すること」と「問題に直面すること」とは密接な関係にあります。 問題に直面することなくして、ほんとうの信仰の告白はありえませんし、信仰の告白なくして、押し寄せるさまざまな問題にまっすぐに向かい合うことはできません。  弟子たちは、湖の真ん中で、舟が沈みそうになるという生死に関わる問題に直面しました。思わず「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫びました。そして、主イエスから「なぜ怖がるのか。まだ信じられないのか」と問われました。  そのうえで、神の力が、神の権威が現され、嵐は静まり、湖は凪になりました。奇跡が起こりました。  弟子たちは、主イエスの向こうにある、神の力を見、主イエスが神からの権威を持つ方であることを、知りました。そして、畏れを感じました。「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。」そこには、今まで知っていた主イエスを見直し、認識を新たにしている、目を見張って主イエスを見つめている弟子たちの姿があります。それは新しい信仰の告白でありました。        〔2006年6月25日 聖霊降臨後第3主日(B-7)説教〕