「タリタ、クム(少女よ、起きなさい)」
2006年07月02日
マルコ5:22-24,35b-43
聖書の中にたくさんの奇跡物語がありますが、その中でも最も理解しにくい奇跡物語、それは主イエスが行われた「死んだ人をよみがえらせる」という奇跡物語だと思います。死んだ人がよみがえったという物語は、旧約聖書にも出てきますが、新約聖書では、今日の福音書に記されているヤイロの娘のよみがえりとラザロのよみがえりがありその他にも見られます。
本日の福音書、マルコ5:22-24、35b-43には、何人かの人々が登場します。その人々の心の内をのぞきながら、主イエスが行われた奇跡の内容を追って見ましょう。
まず、ユダヤ教の会堂の会堂長ヤイロという人物です。
当時の宗教活動には、二つの拠点がありました。一つは、エルサレムにある神殿です。山の上に立派な神殿の建物がそびえていて、そこでは、各地からユダヤ教徒が集まり、律法に従って、犠牲をささげていました。そこでは祭司たちが務めていました。
これに対して、律法を中心とした礼拝をささげる所がありました。ユダヤ教の律法を教え、律法を学ぶ場であり、礼拝をささげ、祈りをする所で会堂(シナゴグ)と呼ばれていました。神殿は、エルサレムににしかありませんでしたが、会堂は、各地の町や村にありました。
会堂長というのは、その会堂の管理者であり、責任者でありました。礼拝のプログラムを立て、司会をしたりしていました。従って、会堂長というのは、その地域にあっては、宗教的指導者であり、尊敬を得ている人でした。
この会堂長ヤイロに12歳の娘がいて、その娘が、死ぬかもしれないという病気を患っていました。そのまま放っておくと死んでしまう。何とかして助けたい、助けてやりたいと願い、その娘の父親ヤイロは主イエスの所に来て、必死になって、頼みました。
「イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。『わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。』」
地位も名誉もあるユダヤ教の指導者である会堂長が、恥も外聞もなく、無名の男、イエスの所にひれ伏して、願ったのです。「助けてください。私のかわいい娘が死にそうです。助けてください」と必死になって願いました。
主イエスは、ヤイロの願いを聞いて一緒に出かけて行かれました。
大勢の群衆も、イエスたちの後について来ます。途中いろいろな出来事に阻まれ、主イエスの一行は、すぐにはヤイロの家には到着できませんでした。主イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々がやって来て、ヤイロに言いました。
「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
ここに「会堂長の家から来た人々」が登場します。
先に言いましたように、ユダヤ人の間では、会堂長は、ユダヤ教の指導者であり、地位も名誉もあり、その地域での立場のある人でした。 このような人が、娘が死にそうだからというので、ナザレ出身のイエスという男の所へ救いを求めに出かけたということは、ゆるされないことでした。ヤイロの家族や親戚、すなわち家の者たちにとっては耐えられないことでした。従って、娘が死んでしまったということは、悲しいことでしたが、反面、そのイエスという男に頼らなくてもよくなったわけで、ホッとして、使いの者をやって、そのことをヤイロ伝えさせました。
「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と。
もうその先生には来てもらわなくても結構ですと言うヤイロの家の人たちや使いの人たちには、主イエスという方がどんな方なのか全然わかっていません。ただただ面子にだけこだわっていました。
主イエスは、その話をそばで聞いておられました。
ヤイロは、その報せを聞いて、取り乱したに違いありません。会堂長ヤイロは、細い最後の一本の糸に頼るように、ほのかな希望を抱いて主イエスに救いを求めて来ました。この方こそ唯一、娘を助けてくださる方だと思って、なりふりかまわずお願いしに来たのに、間にあいませんでした。その報せを聞いて、取り乱し悲しむ会堂長ヤイロに、
主イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」、「わたしを信頼しなさい」と言われた。
そして、弟子たちの中から、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、会堂長の家に行かれました。この3人のほかは、だれもついて来ることをお許しになりませんでした。この3人が、その後に起こった出来事を証言する大事な役割を担うことになりました。 彼らは「タリタ・クム」といういたって具体的な言葉で呼びかけ、死んでいたヤイロの娘が復活した出来事を、自分の目で見た証人となり、後の世にこれを伝えたのでした。
主イエスと3人の弟子たち、そしてヤイロが、会堂長の家に着くと、家族や近所の人たちが、大声で泣きわめいて騒いでいます。主イエスは、その様子を見て家の中に入り、人々に言われました。
「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 これを聞いて人々はイエスをあざ笑いました。
眠っているのではない、仮死状態でもない、死んだのだ。それぐらいの区別もつかないのか。眠っているだけだったら、こんなに泣き悲しんでいるはずはないではないか。彼らは主イエスのことをあざ笑いました。
しかし、主イエスは、そこにいる皆を外に出し、この娘の両親と3人の弟子だけを連れて、子供が寝かされている所に入って行かれました。
そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われました。これは、アラム語という言葉で、その当時、主イエスが日常の生活で使っておられるやさしい言葉でした。「タリタ」は「娘よ」という意味です。そして「クム」は「起きなさい」という意味です。
すると、少女はすぐに起き上がって、歩きだしました。奇跡が起こったのです。この少女はもう12歳にもなっていましたから当然歩き回ることができました。
これを見ていた人たち、すなわちヤイロの家族、集まっていた親族、近所の人たち、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と言いに行かせて人たち、主イエスのことをあざ笑った人たちがそこにいました。そして、その死んだ娘が歩き回っているのを見ました。
「それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた」とあります。
我を忘れるような驚きとはどのような驚きでしょうか。
しかし、この驚きに尾ひれがつき、興味本位にただ噂だけが伝わると、主イエスを王として担ぎだそうとしたり、魔術師や呪術師と受け止められることもあります。そこで、主イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになりました。さらに、ただ興奮して、舞い上がった状態になっている家族を静めるために、また、夢でも幻でもない確かな現実であることをわからせるために、この娘に何か食べ物を与えるようにと言われました。
その後、会堂長ヤイロはどんな人生を送ったのかわかりません。また、死んでいて、主イエスによってよみがえらせていただいたヤイロの娘は、どのような生き方をしたのか、主イエスに従ったのか、従わなかったのか、その後のことについても聖書は何も記していません。
私は、このヤイロの娘のよみがえりの奇跡、ラザロのよみがえりの奇跡の聖書の物語を読むたびに思うのですが、一度は死んで、主イエスによってよみがえらせていただいたこの娘も、ラザロも、両方とも、もう一度死んだであろうということです。その後、精一杯生きたとしても、30年後か40年後には、もう一度、死んでいるに違いないと思うのです。ということは、主イエスによって、少しだけ、寿命を延ばしていただいただけということになります。
そうだとすると、この奇跡物語の奇跡は何のために起こされたのでしょうか。この奇跡物語は、私たちに何を知らせようとしているのでしょうか。私たちに何を受け取ってほしいのでしょうか。
それは、第一に、「人々の驚き」にあります。
主イエスは、最初、この会堂長が主イエスの足元にひれ伏して、しきりに願ったので、ヤイロについて出かけて行きました。その動機は、この会堂長が可哀想だったので、憐れに思い、同情して、腰を上げられました。別の言葉で言いかえると、この奇跡の動機は主イエスの「愛」にあります。
しかし、その結果はどうだったでしょうか。この奇跡の結果を見た人たちは驚きました。我を忘れるほど驚きました。そんなことが起こるはずがないと、びっくり仰天しました。その驚きが大きければ大きいほど、人々の主イエスに対する思いは、「この人は誰だ」「この人は何者なのだ」「この力はどこから来るのだ」という思いに変わっていきます。
それは、この奇跡を直接自分の目で見た人も、その話を聞いた人にも、その出来事が書き留められて後の時代になって、これを読んだ人も、同じ問いとなって起こってきます。
そして、この問いに、信仰をもって答えることが、すなわち私たちの「信仰の告白」なのです。
第二に、「タリタ・クム」(娘よ、起きなさい)という言葉にあります。
私は、死ぬということは、誰が何と言おうと、私自身にとっては、「眠って、起きない」状態だと思います。客観的には、心臓は動いていますし、肺も、その他の内臓も、脳も、細胞の一つ一つが動いて生きています。眠っていることと死んだのとは違います。しかし、眠っている時には、夢もみつことなく熟睡している時には、自分の意識はなく、感じている自分も、考えている自分もなくなっています。
反対に、昼間一生懸命に働いて、疲れて、布団やベッドに入って眠れるということは、こんなに幸せなことはないと思うのですが、しかし、明日の朝、必ず目が覚めると思って、信じて、確信しているから安らかに眠れるのであって、目が覚めないかも知れない、二度と目覚めないと思うと、今度は反対に、うかうか眠れなくなってしまいます。
世にある者にも世を去った者にも神である、その神を信じて生きている私たちにとっては、神の時間、神の物差しで測ると、死の時を迎えるというのは、一時、眠っていることと同じなのではないでしょうか。
主イエスは、永遠の生命を、神の国を求めなさいと教えます。生も死も超えて、神の支配のもとに完全に置かれることを、ひたすら望むならば、神との関係で私たちの死を考えるならば、今の肉体の死は「眠っているのだ」と言われる状態だと思います。
ラザロも、ヤイロの娘も、もう一度死にました。ラザロのよみがえりもヤイロの娘のよみがえりも、ほんとうのよみがえりを体験するのは、主イエス・キリストの十字架と復活によってでした。
キリストはが死んでよみがえられました。キリストの死と復活を信じる者は、キリストと共に死に、キリストと共に復活するのです。この信仰によって、私たちは、眠っている状態から起きあがり永遠の命につながれていきます。
眠っている私に、「クム」(起きなさい)と言われるキリストの声が聞こえます。
〔2006年7月2日 聖霊降臨後第4主日(B年-特定8) 説教〕