「預言者、自分の故郷ではが敬われない」
2006年07月09日
マルコ6:1〜6
主イエスがお生まれになったのは、エルサレムの近くのベツレヘムという所だったと伝えられています。そして、実際に幼年期、少年期、青年期を過ごされたのは、このエルサレムから北の方へ約120キロほど行った所にある、ガリラヤ地方のナザレという所でした。ナザレは小さな村で、旧約聖書にもその他の資料にもこの村の名前が出てきませんから、比較的新しくできた集落、あまり伝統や歴史を持たない村であったと思われます。しかし、この村の周辺には、湧き出る泉があり、そのために緑の多い穏やかな平和な村だったようです。
主イエスは30歳までこの村で過ごされました。大工であった父ヨセフは、主イエスが30歳になられる前、早い時期に亡くなっていたようです。大工の仕事を嗣いで、その長男として、母マリアを助け、弟や妹たちのためにも家計を支えておられたであろうと想像されています。
30歳になった時、突然、人々の前に姿を現し、ヨルダン川で洗礼を受け、「神の国が近づいた」と言って福音を宣べ伝え始めました。弟子たちを連れ、町や村で、多くの人々に説教をし、病気の人々を癒しました。それは主にガリラヤ湖の周辺で活動しておられましたから、ナザレとはそれほど遠い所ではありません。
ある時、主イエスは、弟子たちを連れて、故郷のナザレに帰って来られました。安息日になったので、村の会堂に入って、そこで教え始められました。
同じマルコの福音書1章21節以下には、カファルナウムでの出来事が記されています。
「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」
(1:21〜28)とあります。このように、主イエスは行った先々の会堂で、いつも教えておられことがわかります。
さらにこのカファルナウムの会堂では、汚れた霊に取り憑かれた人から悪霊を追い出し、この人を癒されたという出来事がありました。これを見た人々は「皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。』イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」とあります。
これがカファルナウムでの主イエスに対する人々の反応でした。主イエスの教えの「権威ある教え」に驚き、「悪霊を追い出す力を持つ方である」ことに驚きました。
「この方はいったい何者なのだ」、「この力はどこから来るのか」と人々は目を見張りました。
しかし、主イエスの故郷であるナザレの人たちはどのように反応したでしょうか。
ナザレの会堂で主イエスの教えを聞いた多くの人々も、驚きました。カファルナウムの人たちと同じように驚きました。しかし、驚き方が違ったのです。
「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」
あのマリアの息子のイエスじゃないか。大工をしていたイエスじゃないか。子供の頃からよく知っている。現に弟のヤコブもヨセもユダもシモンもそして妹たちも、まだここに住んでいるではないか。 そのイエスが立派な教えを説いている。奇跡を行っている。あいつにそんな知恵や力がほんとうにあるのか。あれはいったい何だ、と言いました。
主イエスの後ろにある神の権威、神の力など感じようとも知ろうともしません。主イエスが指さす神、そして、神が主イエスを遣わしておられることなど気づこうともしません。「ナザレの人々は、イエスにつまづいた。」主イエスは、彼らの前に置かれたつまずきの石となってしわれました。
「預言者は自分の故郷では受け入れられず、医者は自分を知っている人々を癒さない」ということわざがありました。
主イエスは、それを逆に用いて、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われました。
主イエスは、そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできになりませんでした。そして、主イエスご自身、「人々の不信仰に驚かれた」とあります。
故郷ナザレの人々は、主イエスを理解することができませんでした。主イエスを受け入れることができませんでした。
それは、なぜでしょうか。カファルナウムの人たちの主イエスに対する反応となぜ違うのでしょうか。
それは、主イエスを見る「目」が違ったのだと思います。
ナザレの人たちは、小さな村のことですから、主イエスのことは昔からよく知っています。小さい時のこと、家族のこと、何を食べ、どのような姿で寝ているのかさえ知っています。ましてや、家族、親戚、近所の人たちは、ほんとうに生活の隅々まで知っています。 しかし、このような知り方というのは、肉体の目、肉眼で見た姿であり、経験、体験を通して知っているということです。たとえば、親子、兄弟、姉妹は血のつながり、血縁の関係にあります。だから最も近い関係にあります。しかし、だからと言って、親は子をほんとうに知っていると言えるでしょうか、子は親のすべてを知っていると言えるでしょうか。一緒に住んでいるから、同じ所に居るからといって、その関係は、ほんとうに理解しあっている関係とは言えません。ほんとうに受け入れられているとはいえません。反対に、そこには「甘え」があり「思いこみ」があり、「傍若無人さ」が邪魔をしてしまいます。
家族だから、親子だから、夫婦だから理解できている、よくわかっているはずだ、知っている「はずだ」と思っているところに、今、毎日、新聞やテレビのニュースで心痛めるような事件が起こっているような気がします。
ナザレの人々の身内意識が、主イエスを見る目を曇らせてしまいました。「肉親の眼」「肉体の眼」だけではなく、「心の眼」で見るのでなければ、ほんとうに主イエスを知ることはできません。
「心の目」とは、信頼すること、信じることです。それは、いわゆる「信仰」の目で見るということです。
さて、私たちの主イエスとの関係は、どうでしょうか。
私たちの主イエスへの思い、主イエスの理解の仕方、受け入れ方は、ナザレの人々のようになっていないでしょうか。
洗礼を受けて、何年になります。堅信式を受けて何十年になります。ずーーっと教会生活を守っています。その間に、もう、主イエスに馴れ親しんでしまって、その関係が何でも「知ってる、知ってる」、「わかった、わかった」というような心の姿勢になっていないでしょうか。十字架を見ても、聖書を読んでも、新しい感動に心ふるえることもなく、求めるのでもなく、狭い門から入ろうともしない、そのようなことはないでしょうか。
故郷ナザレの人々、家族や親戚や近所の人たちが、主イエスを見ているような目で、いつのまにか、それで良しとしていないでしょうか。「人々の不信仰に驚かれる」状態になっていないでしょうか。
聖パウロはコリントの信徒への手紙二5章16節にこのように言います。
「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」
また、コロサイの信徒の手紙3章9節10節を聞きましょう。
「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」
〔2006年7月9日 聖霊降臨後第5主日(B年特定10) 説教〕