キリストにおいて満ちあふれる神の恵み
2006年07月23日
エフェソの信徒への手紙1:4〜9
今日は、使徒書から学びたいと思います。
先ほど読んでいただきました使徒書、エフェソの信徒への手紙1章1節から14節は、エフェソの教会の信徒あてに書かれた手紙の一部です。パウロが書いたと言われていますが、神学者の間で説が分かれていまして、内容的には、パウロに最も近い人、パウロの信仰、パウロの思想をよく理解した人が、少し後の時代(80年〜100年)に、パウロの名によって書いたものであろうと言われています。
エフェソという街は、小アジアの西海岸にある美しい港を持つギリシャ人の都市でした。交通の要所にあって貿易が盛んで文化的にも発展した都市でした。エフェソにはアポロが最初の伝道をし、パウロは3回目の伝道旅行の際にエフェソを訪れました。ここに3年間滞在し、キリスト教の教えを説いたということが使徒言行録19章に記されています。その後、このエフェソの教会の人々に手紙を送り、神の恵みに感謝し、教会のあるべき姿、信徒の生き方について教えるという内容になっています。
今日の使徒書は、その手紙の冒頭の部分で、書き出しの挨拶から始まっていますが、神への賛美と神の恵みがキリストにおいて満ちあふれ、キリストの救いの業がキリストによって完成されたことが述べられています。
さて、世に数多くの宗教がありますが、その宗教の目的は「救い」にあります。どんな宗教であっても、いろいろと教えるところは違いますが、突き詰めたところ最後にめざすものは、「私たち人間がいかに救われるか」ということにあります。
これを信じたら病気が治るとか、お金持ちになるとか、悩みがなくなるとか、そういう「救い」を求める人もいます。
もっともっと人間の心の深いところにある人間の業や苦悩をつくつめ、人間の生きがい、魂が救われることを一生懸命に求める人もいます。
一口に「救いを求める」と言いましても、どのような「救い」を「救い」と言っているのか、どのように救われることをめざしているのか、それぞれその宗教によって違いがあるのは当然です。
また同時に、救いを求める求め方やそこにいたる方法にも大きな違いがあります。お賽銭を投げ込んで願いごとをするとか祭りというのも宗教的行事ですし、死者の霊を慰める礼拝をするとか、清めやお祓いをするという方法もあります。ただひたすら念仏を唱えるとか、お題目を唱えれば救われるという所もありますし、座禅をして、悟りの境地に入るとか、きびしい修業、修養を積むことが「救い」にいたる道であると説くところもあります。どの宗教も、それぞれに違いがあって当然ですし、それを非難したり、批判したりすることはできません。
それでは、キリスト教の「救い」とは、いったい何でしょうか。キリスト教の信者は、キリスト教に何を求めているのでしょうか。「あなたは救われていますか」と、尋ねられたとき、「はい、私は救われています」と、私たちは、すぐに、はっきり、胸を張って答えられるでしょうか。
単に教会の礼拝のムード、教会の建物から来る雰囲気、信徒の交わり、親しい信徒同志のムード、そのようなムードの中に身を置いていることが、救いだと思っていないでしょうか。
その時に答えている「救い」とは、いったいどのような救いでしょうか。聖書や教会の教えの中で言われている「救い」とは、どのような救いでしょうか。私たちが求めている救いと、聖書が私たちに求めなさいと教えている救いとは、合致しているでしょうか。同じものでしょうか。
さて、今日の聖書の言葉、とくに4節から9節を読みながら、学びたいと思います。手紙の文章ですから、あなたに、わたしに宛てて書かれた手紙だと思って、そのつもりで読みたいと思います。
「4:天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」
神は、すべてにものをお造りになりました。私たちも一人一人、神によって造られものです。神の意志で、神によって、この世に生まれさせられたのです。
そして、神は私たちを愛してくださっています。では、神はいつ頃から私たちを愛してくださっているのでしょうか。
それは、天地創造の以前から、私たちが生まれるずうーっとずうーっと以前から、神の前で「聖なる者」「汚れのない者」にしようとお決めになっておられたのです。
そのために、神の側につく者か、神に反対する者かを、選り分けられます。「聖なる者」、「汚れのない者」とは、選り分けられて神の側につく者を言います。
では、何を基準にして、どのような人が神の側につく人で、どのような人が神に反対する者とされるのでしょうか。
それは、「キリストによって」選り分けられます。
イエス・キリストを神の子と信じて受け入れる者は、神の側につくもので、イエス・キリストを信じないで、この方を受け入れない者は、神に反対する者とされるのです。
イエス・キリストを神の子と信じ、この方を受け入れた人を、神の子にしようと、神は、神の一方的な御意志で、前もってお定めになったのです。
「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」
それは、私たちが何か自分で努力をして、何か善いことをして、だから神の側につくものとされるのでしょうか。聖なる者、汚れのない者とされるのでしょうか。
神は、私たちを愛するために、神がその愛する御子によって与えてくださった何ものにも比べられないようなすばらしい「恵み」を、私たちがほめたたえるために、私たちを選り分けられるのです。
「恵み」とは、受ける価値も、値打ちもない者が、大きな贈り物、賜物を受けることをいいます。
たとえば、私たちが何か善いことをしてご褒美をいただいた、一生懸命働いてたくさんの賃金をもらったというのは恵みではありません。褒美をいただく善いことをしたからであり、労働の報酬として当然の賃金を得たわけです。もらうべき価値、受ける資格があるのです。
しかし、何も善いことはしていません、報酬を受けるような働きもしていません。受ける値打ちのないものが、与える方の一方的な愛によって、憐れみによって、同情によって、予想もしなかったようなたいへんな贈り物を受けた時、「大きなお恵みをいただいた」と言って大喜びするのです。そして、恵みを与えて下さった方をほめたたえ賛美します。神は、私たちがそのような「恵み」をほめたたえることを求めておられます。
「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。」
神は、私たちを愛するために独りの御子イエス・キリストを与えて下さいました。神は、その御子を十字架に架けられ、私たちのために命をお与えになりました。
かつて、旧約聖書の時代の人たちが、毎年、エルサレムの神殿の祭壇に子羊をいけにえとしてささげ、その子羊の命と引き替えに罪が赦されることを願いました。罪の償いのために支払われる財産を「贖い」と言います。御子イエス・キリストの命は、私たちの罪のために、罪の償いのために支払われました。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(7節)
神が私たちに与えて下さった恵みの内容は、中身は、実にこのことなのです。
これは、誰にでもそう簡単には理解できるものではありません。神の隠された秘密のご計画です。この救いのご計画を、その恵みの内容をわからせるために、私たちに知恵と理解する力を与えて下さったのです。神は私たちに大きな大きな恵みを与え、さらにその上に大きな恵みを与えてわたしたちの上に恵みをあふれさせて下さいます。
祈祷書139頁の「感謝」の祈り、「1.一般」とあります。
1959年の文語の祈祷書には「一般的に用うる感謝」とあり、同じものが1990年改正の祈祷書に入れられました。しかし、内容を良く読んでみますと、内容は全然「一般的」ではないのです。
「主はわたしたちを造り、わたしたちを守り、この世のものを与え、ことに主イエス・キリストにより、世を贖って限りない愛を現し、恵みを受ける方法を示し、後の世の栄光の望みを抱かせてくださいました。どうかこのもろもろの恵みに深く感じ、ただ言葉だけでなく、自らを献げて主イエスに仕え、‥‥‥」とあります。
これは、かけがえのない特別の恵み、他に比べようもない格別の恵みを受けていることを述べ、そのことを感謝している感謝のお祈りです。私たちがしなければならに「神への感謝」それは、この恵みであり、この恵みに対する感謝なくしては、何ものを感謝の対象にはならないのです。
私たちの救いはどこにあるのでしょうか。私たちは、何を「恵み」と言っていますか。私たちは、何を感謝し、何を賛美しているでしょうか。
聖餐式は、「感謝と賛美の祈り」です。祈祷書の言葉一つ一つの心を込めながら礼拝をささげましょう。
〔2006年7月16日 聖霊降臨後第6主日(B年-10)説教〕