キリストの賜物のはかりに従って、与えられる恵み
2006年08月01日
エフェソの信徒への手紙4:7-13
パウロは、かつて、自分が滞在し、キリストの福音を説き、教えたエフェソの教会の信徒に宛てて、手紙を書きました。ギリシャ文化を持ちながら、ローマ皇帝の支配下にある町で、そこには、ユダヤ人もギリシャ人もローマ人もいました。生まれて間もない教会ですが、そのためにいろいろな問題が起こり、キリストのもとに一つとなる、教会が一つとなるということはなかなか難しいことであったようです。
「あなたがたは、神から招かれたのですから、その神の招きにふさわしく歩みなさい。何事にも一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって、互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つです。霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、です。すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」
このように書き、勧告しているということは、当時のエフェソの教会から人間関係などから起こる不協和音が聞こえてきていたことが想像できます。
一人の神さま、一人のキリストを信じ、同じ一つの信仰を持つ者ではありませんか。一つの洗礼を受け、一つの希望をめざして励んでいるのではないですか、と切々と訴えています。
そして、7節に、「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」と書き送っています。
この言葉を読むと、マタイによる福音書25章にある「タラントンのたとえ」を思い出します。(14節〜30節)
このたとえでは、主イエスは、神と人間の関係、神の国とは「このようなものですよ」と言っています。
ある人が旅に出かけることになりました。そこで、いろいろことを任せている僕たちを呼んで、自分の財産を預けました。一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出かけていきました。
タラントンとは、ギリシャのお金の単位で、1タラントンは、6、000デナリオンです。1デナリオンは労働者の1日の日当分ぐらいですから、6,000日働いたぐらいのお金です。たいへんな額のお金です。
そこで、早速、5タラントン預かった僕は、それでもって商売をして、5タラントンを儲けました。同じように、2タラントン預かった僕も、それを元手にして2タラントンを儲けました。
しかし、1タラントン預かった僕は、それを持って出て、地面に穴を掘って、預かったご主人の金をそこに隠しておきました。
さて、それからかなり日が経って、ご主人が帰って来ました。そして、僕たちを一人一人呼んで、預けたお金の清算を始めました。
まず、5タラントン預かった僕がご主人の前に進み出て、預かった5タラントンとこれを元手にして預けた5タラントンとを差し出して言いました。
『御主人様、あなた様は、わたしに5タラントンをお預けになりましたが、これを元手にして、商売をしました。御覧ください。ほかに5タラントンもうけました。」
すると、ご主人は言いました。
「お前は忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、もっと多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」
こう言ってこの僕を褒めました。
次に、2タラントンを預かった僕もご主人の前に進み出て言いました。
「ご主人様、あなた様はわたしに2タラントンお預けになりましたが、これを元手に商売をしました。それでほかに2タラントンを儲けました。」
主人は言いました。
『お前は忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、もっと多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」
5タラントンを儲けた僕と同じ言葉でほめました。
ところで、1タラントンを預かった僕もご主人の前に進み出て言いました。
「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、わたしはあなた様からお預かりしたあなた様のタラントンを地面を掘ってその中に隠しておきました。御覧ください。これがあなた様からお預かりしたお金です。』
そう言って、預かったままの1タラントンを差し出しました。
するとご主人は、
「お前は、怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それを知っていながら、何もしないでただ隠しておいただけなのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておいたほうがましだった。そうすれば、わずかでも利息がついて、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのだ。」
と言って怒りました。
「そのタラントンをこの男から取り上げよ。そして、それを10タラントン持っているあちらの僕に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられるのだ。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこでこの僕は泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
このようにして1タラントンを預かって、じーっと隠したままにしておいた僕は放り出され、大いに後悔することになったというたとえ話です。
このたとえ話は、もう皆さんは何度も聞いて知っているお話だと思います。
ご主人とは、神のことです。僕たちは、私たち一人一人の姿です。そして、タラントンはギリシャのお金の単位ですが、ここから「タレント」という言葉になっています。日本ではテレビによく出ている人を「タレント」と呼んでいますが、英語の辞書を引いてみますと、「生まれつきの才能、能力、適性、才能ある人、天賦の才能を持った人、gift(賜物) ability」とあります。
神は、私たちに一人一人にタラントンを預けておられる。その量は、一人一人みな違います。私たちはその預かったタラントンをどのように生かすかということが問われています。
「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」
「キリストの賜物のはかりに従って」、それは、神が一方的に決めます。私たちの目から見ると、決して平等でもなければ公平でもありません。なぜ違うのかという理由も知らされることもありません。わたしは、あの人のように多くないからだめだとか、もっと多くいただいて当然だとは言えません。さらに、どんなに少なく見えても、それはその一人一人には十分なのです。それが賜物であり恵みなのです。
大切なことは、その与えられた賜物、恵みを私たちはどのように感謝して受け取り、それをどのように生かすかが問われます。
教会の中での働きの場を考えてみますと、「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆくのです。」
それぞれが神から預かった賜物、お恵みを生かし、精一杯有効に生かして奉仕の業を務めることによって、みんなでキリストの体である教会を造り上げていくのです。
それは、教会の中だけではありません。家庭でも、学校でも職場でも、人間社会においても、同じことが行われるのです。
わたしは、ずいぶん若い頃に、宇治の黄檗山万福寺に見学に行ったことがありました。その一角に宝蔵院という塔頭があり、そこに鉄筋コンクリートの蔵があって、その中に「大般若経」と呼ばれるお経の版木が保存されています。鉄眼道光(てつげんどうこう)という禅師が、一切経の発刊を願い、1678年、17年間全国行脚して資金を集め、6,912巻のお経を56,229枚の版木に掘るという事業を成し遂げました。現在は、その版木が重要文化財に指定され保存されています。現在も拝観料を払って、見せてもらえます。縦26センチ、横82センチ厚さ1.8センチの桜の木の版木の両面に、明朝体の経文が彫られています。それが約6万枚。整然と並ぶ棚に1階にも2階にも渦高く積み重ねられています。
一階の一角、版木の棚に囲まれた窓のない薄暗い一角では、一人のおじいさんが、どっかりと座って、版木に墨を塗り、和紙を載せ、バレンでこすって、経文を手刷りしていました。仏教の経典の百科事典とも言われる大般若経全巻の版木が残っているというのも驚きでしたが、さらに驚いたことは、300年も昔の版木がそのまま使われて、その版木で今も一枚一枚手刷りされて経典が刷られているということでした。
裸電球が一つぶら下がっているだけの、薄暗い所で黙々と木版刷りをしているそのおじさんの作業を、わたしはしゃがみ込んでじっとみていました。すると、しばらくするとそのおじいさんが話し出しました。
「わしは、戦前からずーっとここで、来る日も来る日も毎日ここで、お経を刷り続けている。戦争が激しくなって、みんな疎開したり、避難した時もわしは、ここでずっとこれを刷り続けてきた。
今、仏教は堕落している。それは、お坊さんたちがお経を読まんようになったからや。お坊さんにしっかりお経を読んでもらうためには、しっかりしたお経がないと読めんのじゃ。心のこもったお経をここでしっかり刷ってやらんと、坊さんたちは、心を込めてお経が読めん。ここで刷る経文は、宗門、宗派に関係なく日本中のすべてのお寺で使われている。仏教がようなるのも悪うなるのもここで刷るお経の刷り上がり次第じゃ。そのためには、わしの腰が据わってないといいお経が刷れん。ここで心がこもってないと日本の仏教が廃れる。」
わたしは、黙ってうなずいているだけでしたが、そのおじいさんの迫力、気迫に驚きました。日本中の仏教が今、自分の肩にかかっているという気迫でした。たぶん、仏教の世界にも、高僧、名僧と呼ばれるお坊さんも大勢おられるでしょう。もっと修業を積んだ、有名な偉いお坊さんや信徒の人々も数え切れないほどいるでしょう。しかし、若いころから、生涯をかけて薄暗い倉庫の一角で、仏教を支えている気概をもって黙々と働いておられるこの職人さん、誰からも知られないところで、まさに縁の下で仏教を支えておられるおじいさんの言葉が忘れられません。仏教の世界の人で、キリスト教の人ではありませんが、どの世界にも、共通する話しだと思います。
パウロの言葉から、わたしは昔聞いたこのおじいさんの言葉を思い出しました。
「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。見えるところで働く人たちだけではありません。小さな仕事、小さな持ち場、それぞれに与えられた恵みによって、奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆくのです。そして、ついには、わたしたちは皆、神の子キリストに対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」
今、与えられている「恵み」感謝し、この恵みに答えて生きたいと思います。
〔2006年7月30日 聖霊降臨後第8主日(B年12)説教〕