古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ける。
2006年08月13日
エフェソの信徒への手紙4:17-24,30-5:2
毎主日の聖餐式において読まれる聖書の個所は、旧約聖書から、新約聖書の使徒書から、そして、同じ新約聖書の福音書から、3ヶ所の聖書の言葉が朗読されます。聖霊降臨後主日のこの期間、今年は、とくに使徒書から学びたいと思っています。
そして、7月の第1主日から、「エフェソの教会への手紙」が、使徒書として定められています。
エフェソの教会への手紙は、パウロが書いた手紙、パウロ書翰の一つとされていますが、正しくは、パウロが書いたものかどうかわかりません。パウロに最も近い人、パウロの信仰を最もよく理解した人、すなわちパウロの弟子のような人が、パウロの名によって、これを書き、送られたものではないかという説もあります。
パウロは、命がけで地中海沿岸の各地を伝道旅行している間に、小アジアのギリシャ文化とローマの文化の交流地点、都会的な繁栄にあふれかえる港湾都市、エフェソを訪れ、3年ほど滞在したと使徒言行録は伝えています。パウロは、エフェソの教会の信徒、一人一人の顔を思い浮かべながら切々と手紙を書いた、または書かせたのがこの「エフェソの信徒への手紙」です。
その手紙の中で、パウロは言います。
「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。」(4:17,18)
かつて、ユダヤ人は、異教徒、異国人を「異邦人」と呼んで、罪人扱いにしました。それは、イスラエルの神、ヤーウエの神を信じない者、神のことを知らない人という意味でした。ここで、パウロは、「神を信じない人」「神を知らない人」さらにもっと狭い範囲で、「イエス・キリストを信じない人」「非キリスト者」のことを「異邦人と呼んでいます。
エフェソの教会には、ユダヤ人もギリシャ人もローマ人もいました。彼らは、かつてはそれぞれの国の宗教、ギリシャ人はギリシャの神々を信じ、ローマ人は、太陽神やその他の神々を信じ、ユダヤ人は、偏った律法主義を教えられていました。キリストに出会うまでは、まさに「異邦人」でした。
しかし、キリストの福音に触れ、キリストを信じ、キリストに従って生きることを誓い、キリストの名によって洗礼を受け、キリスト者となりました。しかし、あなたがたの毎日の生活、あなたがたの人間関係、あなたがたの生き方を見ていると、または聞くところによると、洗礼を受ける前の「異邦人」の時代の生き方と少しも変わっていないではないですか、と問いかけます。
洗礼を受け、クリスチャンになってから後も、あなたがたのしていることは、異邦人、すなわち非キリスト者であった時代と同じことをし、同じことを思い、無知とその心のかたくなさのために、神の命、神のみ心から遠く離れていると言います。
異邦人であること、すなわち非キリスト者であることと、ほんとうのキリスト者であることとどこが違うのでしょうか。
それは、まず考え方と価値観にあらわれ、さらに生活の仕方、生き方にあらわれます。
パウロ自身、フィリピの信徒のへの手紙3章5節以下に、このように言っているところがあります。
「わたしは生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」
パウロは、かつて、誰よりも血統正しいユダヤ人で、熱心なユダヤ教徒でした、しかし、キリストに出会ってから価値観が180度ガラッと変わってしまいました。今まで自分にとって有利と思っていたことが損失と思うようになりました。キリストを知ることによって今まで大事にしていたものをたくさん失いましたが、ところが、今ではそれもチリ芥のように思っていると言っています。
そのような自分の体験に照らして、パウロは言います。
あなたがたは、キリストに出会い、キリストの真理に触れ、キリストの愛を知ったはずです。真理や愛と言っても、ただ言葉だけの抽象的な理念や倫理・道徳を言っているのではありません。イエスその方が真理であり、愛そのものなのです。イエスの生きざま、死にざまそのものが私たちの生活、私たちの考え方の基準なのです。
ところが、実際は、クリスチャンになったのに、洗礼は受けたのに、それは名ばかりとなって、相変わらずこの世のルールやしきたりが心を支配し、価値観は、金銭欲と損得に終始し、判断の基準は、自分の欲望の満足と、人からどう思われるか人の顔色ばかりをうかがうことにかかっています。それでは、キリストを知らない人々の価値観と同じではないですか。イエスと出会う前のあなた自分と少しも変わっていないではないですか、とパウロは言います。
「無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」(4:19-21)
「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(4:22-24)
パウロは、キリストに出会い、キリストを知り、キリストに従って生きようと決心する以前の生き方と、それ以後の生き方を、「古い人を脱ぎ捨て」「新しい人を身につける」という言い方で表現しています。今まで慣れ親しんだ、肌になじんだ古い衣服、しかし、それを着ている限りは心は改まらず、生活の仕方も変わりません。
しかし、思い切ってこれを脱ぎ捨て、新しい、清潔な衣服を身につけることによって、新しい生活に改まっていくのです。
パウロは、単に衣服のことではなく、これに準えながら、古い「人」を脱ぎ捨て、新しい「人」を身につけなさいと勧めます。
脱ぎ捨てるべき古い人とは、情欲に迷わされ、滅びに向かっている人です。人を着替えるということは、死んで生まれ変わることを意味します。人は、洗礼によってキリストと共に死に、そしてキリストと共によみがえっているのです。
そして、「神にかたどって造られた新しい人」を身に着けるのだと言います。
これは、旧約聖書の最初の書、創世記の天地創造の物語を思い出させます。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(1:27)とあります。
神は、神のかたちに似せて人をお造りになりました。人は、他の動物とは根本的に違うものとして、その本質において神に「似たもの」を与えられて造られました。ところが、その神の本質に似た本質の一つとして「選ぶことのできる自由」を与えられましたが、この「自由」を使って、神の命令に背くという罪を犯しました。この時以来、人間にはどうしようもない「罪」を背負って生きることになりました。人間とは、そういうものですよとこの物語は教えています。
パウロは、このような罪を犯す以前の、造られたばかりの新しい人、神に善しとされた人を身につけるようにしなさいと勧めているのです。
現在、私たちのまわりには、数え切れないほど多くの宗教があります。世界中に広がる普遍的な宗教から、一つの国、一つの地域にだけ伝えられている民族宗教、民間宗教まで、また、何千年も伝えられ、歴史を持っている宗教から、新興宗教、新々宗教まで、数え切れません。そのさまざまある宗教の中で、とくに世界に広がる普遍的宗教の特徴は、倫理的宗教だといいます。それは、「いかに生きるべきか」「いかにあるべきか」を問い、「人のみち」を示してこれを守ることを求めます。長い歴史の中で、このような倫理や道徳を持たない宗教は、多くの場合滅んでしまうと言われます。
キリスト教も倫理宗教の一つです。ある意味では、きびしい倫理観、道徳観を持っています。聖書全体の中に、私たちはいかに生きるべきか、私たちはいかにあるべきかが、問われ、そして、非常に高い水準というか、どんなに背伸びしても手を伸ばしても、とうてい届かないような高い所に基準があって、そのように生きなさい、そのようにありなさいと命じられているような気がします。
しかし、私たちが信じるキリスト教の教えは、ただ、主イエスが要求される言葉、聖書の教えや命令を丸暗記して、これを毎日唱えて、そして、全部これを実行しなければだめだというのではありません。そのために精神修養をして、肉体を打ちたたいて修業すれば、神に褒められて、天国に入るということを教えているのでもありません。
たしかに、他の何ものよりもきびしい、高い水準の倫理、道徳が求められています。そして、他方では、これをすべて守ることができない、実行することができない弱い、無力な私たちをも受け入れてくださっている方のことを忘れてはなりません。神の独り子、主イエス・キリストは、そのような私たちのために、私たちにかわって十字架につけられ、死んでくださったのです。そして、3日目によみがえってくださったのです。何一つ善いところのない、手も足も出ない死んだものと同様の私たちは、そのことによって生きる者とされたのです。ただ、私たちにできることは、この方を信じて、ほんとうに心から受け入れ、信頼して、この方から離れないことです。どんなことがあってこの方にしがみついていることです。
「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(4:32-5:2)
私たちはいかに生きるべきか、私たちはいかにあるべきか。
私たちは、私たちの思いや行いに先だって、まず、神から大きな、大きな恵みを受けています。私たちは、大きな大きなキリストの愛を受けています。私たちは、そのことを思うと、ほんとうに心から感謝せずにはいられません。そして、神のその恵みと愛に応えたいのです。神の命令をただ倫理や道徳の規範として受け取り、これを丸暗記して、自分の力で守れると思って生きているのではないのです。神の恵みを受けた私たちが、キリストの愛を受けた私たちが、神に、主イエスに、どのように応えていくか。私たちの考え方、生き方を通して、神の問いかけ、神の呼びかけに応えたいのです。そうせずにはいられないのです。
パウロがエフェソの教会の人々に切々と書いた勧めを通して、私たちの考え方や生き方が、どちらの方を向いているか、自分自身をふり返ってみましょう。
〔2006年8月13日 聖霊降臨後第10主日(B-14)説教〕