感謝と賛美の礼拝
2006年08月20日
エフェソの信徒への手紙5:15-20
1 初代教会の信徒の生活と礼拝生活
主イエスが十字架につけられ、死んで葬られ、3日目によみがえられたという出来事があって後、弟子たちに、復活した主イエスが現れ、さらに、ペンテコステの日に、弟子たちは聖霊を受けるという不思議な体験をしました。
その時以来、弟子たちは、主イエスのことを大胆に証しし、多くの人々にキリストの福音を宣べ伝えはじめました。弟子たちを中心に、キリスト教の教会が生まれました。
まだ、教会の建物もない、教会の組織や制度もできていない、生まれたばかりの教会を、「初代教会」とか「原始教会」といいます。
弟子たちを中心にした、キリストを信じる人々の生活はどのようなものだったのでしょうか。ルカによる福音書の続編といわれる、ルカが書いた使徒言行録には、このように記されています。
「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(2:43-47)
原始共産主義といいます。自分の財産をみんな持ち寄って、必要に応じて分け合い、心を一つにして神殿に参り、さらに、家ごとの集まってパンを裂くということをしていました。ここで、「信者たちは皆一つになって」「すべての物を共有にし」「ひたすら心を一つにして神殿に参り」と、キリストを信じる人たちは、心を一つにし、そして、いつも一緒にあるということが強調されています。
エルサレムのユダヤ人が中心でしたから、当時はまだユダヤ教の習慣を守り、神殿に参るということも熱心にしていました。
そして、まだ、今のように、聖餐式のかたちが定まっていない時代でしたから、各家庭において「パンを裂く」と呼ばれるキリストを記念するお祈りの集まりが行われていました。そして、「喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」とあります。
当時のクリスチャンにとっては、毎日がイースターであり、主イエスの復活を記念するものでした。喜びと賛美にあふれた、ほんとうに生き生きした信仰生活を送っていたことが思いうかがうことができます。彼らに触れた回りの人々から、民衆全体から、好意を寄せられていたとあります。そして、ますます信徒の数は増えていきました。
2 礼拝とは何か
このようにして、キリスト教の礼拝が始まったのですが、それから、約2千年が経ち、そして、今も私たちは礼拝をささげています。
ここで、すこし立ち止まって考えてみたいのですが、私たちが礼拝するということはどのような意味があるのでしょうか。何のために礼拝をしているのでしょうか。
「礼拝」という言葉は、たぶん日本語としては、古来からある神道や仏教から「らいはい」するという言葉がキリスト教でも使われているのだと思います。英語は、礼拝を意味する言葉はいくつもあります。その中で、最もよく使われる言葉に「ワーシップ」という言葉があります。この言葉は、worth(価値のある)とship(状態)からなる言葉で、worthは、「価値のある」「価値がある」「値する」という意味です。そして、ship は、名詞の後ろについて「状態」「性質」を表します。friendship とか leadership とかに見ることができます。そこで、この礼拝を意味する「ワーシップ」は、「価値あるものの状態」ということになります。「価値あるものを価値あるものとすること」「神を神とする」「神以外のものを神としない」、そして、それが「崇拝、礼拝」という言葉の意味になっています。
人間と神の関係は、民主主義の関係ではありません。神は、人々、みんなの話をよく聞いて、その意見を取り入れて、最後に多数決で決めましょうという方ではありません。なぜこんなことになるのですか、こんな不公平なことがあっていいのでしょうかと、どんなに訴えてみても、叫んでみても、怒ってみても、神は、神の思いのままにすべてを支配されます。
神は、絶対君主です。人間との関係は、専制的、封建的な関係です。それは、神は絶対者であり、創造者であり、すべてのものの支配者であり、人間は被造物であり、神の支配のもとに生かされているものだからです。
その関係は、昔の王さまと家来の関係のようなものです。王さまとその国の民の関係のようなものです。王国の国民は、王さまを王さまとして立てる。あなたこそ王さまです。私たちの王はあなたの他にありません。あなたの権力は偉大、すべての栄光はあなたのものですと言って王さまを褒め称えます。王さまは「よし、よし」と言ってこれを聞き喜びます。王さまは、自分の国をよく支配し、国を治め、人々の生活を守り、すべての人々は安心して生活することができます。
神と私たちの関係は、そのような関係です。神を神とする、神をほめ称える。あなたこそ神です。あなた以外に神はありませんと言い続けます。まさに価値ある者を価値あるものとするとはそのことです。そこに、神の前にひれ伏している姿があります。
私がかつてある教会にいる時でした。教会の中で勉強会をしている時に、そこに集まっている人たちに尋ねました。
「あなたは何のために礼拝するのですか」
「礼拝をする目的は何ですか」
「あなたは誰のために礼拝するのですか」と。
これに対して、口々に出た答えは、「私の願いをお祈りするためです」「神からお恵みを受けるためです」「聖歌を歌うのが好きで、礼拝に出席すると聖歌が歌えるので」、「礼拝の雰囲気が好きで。気持ちが落ち着くからです」、「ためになるお話を聞くため」、「精神修養になると思って」「教会のメンバーとの交わりのため」等々。
そこで、私は言いました。「礼拝は神のためにするのですよ」「神を神とする、神以外のものを神としないということを確認するために、みんなで集まって礼拝するのですよ」と言うと、意外な顔をしました。そんなこと当たり前でしょう、大前提ですよと言います。 しかし、礼拝と聞いて、「神のため」と口に出して言った人はいませんでした。
神は、「わたしは神だ。わたしを礼拝しなさい」と命令しておられるのです。「わたしの機嫌を取りに来なさい、わたしにあなた以外に神はありませんと言いに来なさい。」それは、個人的に、ふとんの中で、ベッドの中で思うのではなく、神を信じる者、キリストを受け入れた人がみんな集まって、一緒に声をそろえて、大きな声で、はっきり言いなさいと、私たちに求めておられるのです。
私のためではないのです。神のために礼拝をささげるのです。その時の自分の気持ち、気分がでおであろうと、どんな事情があろうと関係ありません。ただ、ひたすら神に「よいしょ」しなさいと言われます。ただ、ひたすらそれをすると、心をこめて、礼拝すると、向こうの方から、神の想像もつかない大きな恵みが注ぎ込まれるのです。大きな喜びに満ちあふれ、新しい生き方に変えられていくのです。
3 詩編と賛歌と霊的な歌
それでは、その礼拝の中身、内容は何でしょうか。
今日の使徒書(エフェソ5:17〜19)に、パウロは、エフェソの教会の人々に次のように言います。
「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
「詩編と賛美と霊的な歌」ここに3種類の歌があるかのように記されています。「詩編」とは、旧約聖書の詩編を指します。詩編の中の神を賛美する歌を繰り返し歌いなさい。「賛歌」とは、その次の時代に生まれた神を賛美する言葉、新約聖書の中にあるクリスチャンの歌を歌って賛美しなさい。「霊的な歌」は、賛美と聖なる願望とを語る即興詩、その時に浮かび上がる、湧き出てくる賛美の歌を指したものだと言われます。そのいずれも「霊に満たされて」「主に向かって心からほめ歌いなさい」と勧めます。
4 主イエス・キリストの名によって神に感謝せよ。
「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」(5:20)
パウロは、この手紙を牢獄から書き送っていると言います。「わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください」(6:20)と、自ら述べています。
当時の牢獄は、最悪の環境にありました。じめじめした地下の薄暗い牢獄、寒さや悪臭、そこには藁が敷かれただけの寝床、そこに、鎖につながれて、パウロは手紙を書いています。最悪の境遇の中で、「いつも、あらゆることについて」「神に感謝しなさい」と勧めます。ふつうでは、到底感謝などできるはずがないそういう状況のもとで、パウロ自身が、感謝に満ちて、喜んでいます。口先だけでなく、そのような心境になれることを実際に体験しながら、「いつも、あらゆることについて」、「神に感謝しなさい」と信仰を共にする同胞に書き送っています。
わたしたちはどうでしょうか。私たちは、どのような時に神に感謝しているでしょうか。どんな場面で神に感謝をささげているでしょうか。パウロが身を置いている状況と同じ場にいるとすると、感謝どころか、神をのろい、自分をのろって、感謝どころではありません。
ところが、パウロの手紙にはもう一つ注意しなければならない言葉があります。「わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」 それは「主イエス・キリストの名により」という言葉があることです。何でもかんでも「感謝」と言っていればいいというのではないのです。
コロサイの信徒への手紙3:17でも「そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」と記されています。これもパウロの手紙です。「イエスの名によって」「イエスによって」というのは、主イエスが行うのと同じ意味を持っています。そこには、主イエスが共にいる、共にいてくださるという確信があります。だから感謝できるのです。
さて、わたしたちはどのような思いで礼拝をしているでしょうか。
全身全霊をささげて、神のために、賛美し、感謝しているでしょうか。主イエスが共にいてくださるでしょうか。
最後に、もう一ヶ所パウロの手紙、ローマの信徒への手紙を読んで終わります。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして、自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:1,2)
〔2006年8月20日 聖霊降臨後第11主日(B-15) 説教〕